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解説「菩薩の生き方」第二回(3)

 はい。で、その第一段階、一番最初の教えがこの、いかに人間に生まれることが難しく、そして、かつそこで真理、ダルマに出合い、修行できる機会が難しいか。よって、ここに結論として書かれてるように、今そのチャンスを得ている。それなのに今徳を積んだり修行しようという強い気持ちを起こさなかったら、いったいいつ解脱できるというんだと。ね。このチャンスを逃したら、再びこのチャンスに巡り合えるのは至難の業だと。次いつになるか分からない。ね。そして巡り合うまではまた苦しみの輪廻を繰り返さなきゃいけないんだよと。この現実っていうかな、これをまずしっかり自分の心に根付かさなきゃいけないっていうことですね。
 チベット仏教では、前も言ったけども、この、今言った人間に生まれることの稀有さ、これを、初心者の状態から、かなりの高僧になっても、毎日毎日ひたすらこれを学ぶっていいます。学ぶっていうか、つまり自分の心に思い起こさせると。それだけわれわれってやっぱり怠け者なんだね。すぐに「まあ、いっか」みたいになってしまう。だから常に、自分の今のチャンスっていうものが稀有なんだよと。
 いつも言ってるけどさ、これとセットでよく説かれるのが、まああとで出てくると思いますが、人はいつ死ぬか分からないと。だからこの二つがセットになると、もう修行するしかないんだね。「巡り合ったのが稀である」と。「いつ死ぬか分からない」。ね(笑)。やるしかないでしょ、これね(笑)。もう一瞬も見逃せないと。はっきり言うと――ここまで言うとちょっと厳しいけども、寝ることさえできないよ、究極的に言えば。だって寝てる間に死んだらどうするの(笑)。究極的に言えばですよ。でもまあ、皆さんに寝るなとは言わないけども、それくらいの心構えだね。あるいは、猶予できませんよ。猶予できないっていうのは例えば、皆さんもさ、もちろんちょっと心が落ちることもあるでしょう。あるいは悪い心が出ることもあるでしょう。心がちょっと良くない状態になることもあるでしょう。でも皆さんは甘いから、自分に甘いから、それを猶予させちゃうんだね。猶予させちゃうっていうのは、「まあ、こういうときもある」みたいな感じで、しばらくその悪い状態に浸って、自然に良くなるのを待つと。これはまあ、われわれのこの与えられたチャンスが永遠であるとか、あるいは何十年とか保障されてるんだったらいいよ。でも本当に明日死ぬかもしれない。あるいは明日どころか、一分後に死ぬかもしれないとしたら、本当は猶予の時間なんてないんだね。一瞬でも例えば悪い思い、あるいはダルマから外れた心の状態になったら、「やばい!」と思わなきゃいけない。
 これは『入菩提行論』でもよく出てきますが、例えば、油のみなぎった鉢があって、で、もしそれをちょっとでもこぼしたら、横に武士がいてね、ちょっとでもこぼしたらバッて斬られると。ね。そういうゲームじゃないけども、そういうのをやってるとしたらね、もう一瞬も見逃せないですよね。一瞬も、ちょっとも気を抜かずに歩かなきゃいけない。例えばちょっと体が揺れちゃって、グッと油が落ちそうになったら、「やばい!」ってもうものすごい集中力でバランスを保たなきゃいけない。つまりこれくらいの気持ちで生きなきゃいけないんだね。つまり自分の心を日々観察して、ちょっとでも、例えばグチグチと誰かの不満が心に出てきたり、あるいはなんか心が暗くなったり、あるいは心が神とか真理なるものから外れてしまってきてると。それに気付いたら――だいたい皆さんね、本当は気付いてるはずなんです。全く気付かない、ずーっと気付かないでずーっとそれが過ぎるってことは本当はない。途中で気付くはずなんだね。気付くけど、皆さんほっといてる。気付いたら、決してほっとかない。「やばい!」と。これは何度も言うけども、何よりもやばいです。ね(笑)。何よりもやばい。やばいことっていろいろあるよね(笑)。やばいことっていろいろあるけども、あらゆるやばいことはどうでもいいです。これこそやばいです。ね(笑)。われわれの心が、真理なるもの、聖なるもの、ダルマなるものから外れること――これ、やばいです。だっていつ死ぬか分からないから。外れた状態で死んだらどうします? 例えば悶々と悪い心になって、「ああ、これはいつもの悪い心が出た」と。「明日になれば治るかな」と思って、一時間、二時間、三時間とほっといたら、明日が来る前に死んじゃうかもしれないよ。その悪しき心――例えば不満や、怒りや、嫉妬や、後悔やいろんなもので満ちてる状態で、車にひかれて死んじゃうかもしれないよ。もう最悪ですよ、それは。もちろん修行が達成されなかったっていう意味でも最悪だけども、そういう悪い状態で死んだっていうのも最悪です。で、まあ当然その心があらわすような世界に落ちちゃうかもしれないよね。だから本当にわれわれっていうのは一分一秒も、あるいは一瞬一瞬、気を抜けない。いつも言うけどね、それくらいの緊張した気持ちでちょうどいいんです。
 もちろんね、その緊張した気持ちが、持続し、自分のものになれば、逆にリラックスします。つまりリラックスした状態で自分の念正智を保てるようになるんだけど、そこに行くまでは緊張でかまいません。よく最近のスピリチュアルがいうような、最初から「リラックスして」なんて駄目ですよ、絶対。だってカルマが悪い人がリラックスしたらどうなります(笑)? カルマが悪い人がリラックスしたら、もうその悪いカルマに翻弄されるだけだからね。うん。エゴを捨てろっていう意味ではリラックスしてください。だから言葉の問題ですけどね。だからわたし、ちょっと矛盾すること言いますが、緊張はしまくってください。しかし同時に、エゴっていう意味ではリラックスしてください。ね。皆さんはエゴによって緊張してるんだね、いつもね。エゴによって、「わたしのエゴが傷付けられるんじゃないか」「わたしのエゴが叶えられないんじゃないか」「わたしのエゴが不満なんだ」――これで緊張してるんです。これは完全にリラックスしてください。エゴどうでもいいと。じゃなくて、「わたしはダルマから外れてるんじゃないか」「わたしは神の意思から外れてるんじゃないか」「わたしはわたしの志や理想から外れてはいないだろうか」――これで緊張してください。ガチガチに。で、それで、緊張の果てに来るリラックス、つまり、もう完全に念正智が自分のものになって、もう何も考えない状態で、自動的に、自分が自分を観察してね、欺瞞的なものを排除すると。この状態だったら素晴らしいね。この状態になったら、なんの緊張もなく、ダルマどおり生きられると。そこに至るまでは、ダルマにおいては緊張してください。しかし何度も言うけど、エゴにおいてはリラックスするという感じだね。

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