yoga school kailas

「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第10回(5)

◎ニルヴァーナの本性

【本文】

 プラジュニャーパーラミターにはこう説かれる。

「ニルヴァーナの本性は空である。」

 サッダルマプンダリーカ・スートラ(妙法蓮華経)にはこう説かれる。

「すべての法の平等性に住することがニルヴァーナである。

 如来が久遠の昔に最正覚を得て以来、如来は常に住し、ニルヴァーナに住することはない。衆生を救済するために、ニルヴァーナをあらわすのである。」

 ローコーッタラパリヴァルタ(出世品(しゅっせぼん))にはこう説かれる。

「もろもろのブッダがすべてのニルヴァーナを示してニルヴァーナに入ることが、ニルヴァーナの極みである。」

 ブラフマパリプリッチャー(梵天所問経)にはこう説かれる。

「ニルヴァーナというのは、一切の相が寂静となり、一切の愛著を取り除き、愛著を離れたものである。
 また、ニルヴァーナというのは、お互いの条件によってできた虚栄心をなくすことである。」

 原始仏典には、こう説かれる。

「ニルヴァーナとは、愛著をなくすことであり、嫌悪をなくすことであり、迷妄をなくすことである。
 ニルヴァーナに至る道とは、八正道である。」

 シュリーマーラデーヴィーシンハナーダには、こう説かれる。

「ニルヴァーナというのは、もろもろの如来の方便である。
 大乗に入ることによって、無上最正覚に通達する。」

 はい。ここではニルヴァーナというテーマなんでね、いろんな経典のニルヴァーナの記述を出しているわけですね。
 はい。これもまあ、パッパッパッと見てみると、そうだな、例えばこの『サッダルマプンダリーカ・スートラ(妙法蓮華経)』――妙法蓮華経って、いわゆる法華経のことですが――「如来は常に住し、ニルヴァーナに住することはない。」――まあこれがさっき言った、矛盾的な言葉の使い方なんだね。
 「衆生を救済するために、ニルヴァーナをあらわすのである。」
 あのさ、ニルヴァーナってもう一回言うと、あの、「火が消えていく」っていうような、もともとの意味があります。つまり、輪廻の火が燃えていますと。輪廻の火を消すんだね。で、ここで矛盾が生じる。つまり、これってさ、二元じゃないですか? つまり「火」っていう状態があって。つまり火がついてる状態があると。火が消えた状態があると。二元なんだね。つまり、本当のニルヴァーナはそうじゃないんです。本当のニルヴァーナはそうじゃないんだけど、一応われわれは、火が燃えてると思ってるから、消えたのがニルヴァーナって言ってるだけなんだね。これがこういうところで説かれてる。
 で、ちょっとまた別の例えをすると、じゃあ、解脱者、あるいは如来でもいいけども、解脱した者が、なんでこの――つまりニルヴァーナって火が消えた状態だから――なんで、じゃあこのわれわれの火が燃えてる輪廻にいられるんですかっていう話があるよね。つまりそれは、火の、つまり絵画のね――絵の、火の絵を描いたようなものだっていう表現がされるんだね。火の絵を描いたようなものだ――そうだな、どう言ったらいいかな。例えば全員裸だとするよ。全員、裸だと。Y君だけ、裸のプリントのシャツ着てると(笑)。

(一同笑)

 ちょっとバカバカしい例えだけど(笑)。バカバカしい例えだけど、Y君だけ、裸のプリントのシャツを着てます。ね(笑)。ちょっと変な例えですけどね。つまり、この例えでは、裸は駄目だと。服着ろっていう前提があって。Y君はもう服を着る境地にいるんだけど、でもみんなを救うために裸のプリントの(笑)……「えっ、お前、裸じゃないの!?」みたいな、そういう世界だね。まあそれはどうでもいいんだけど(笑)。
 でも、でもね、この話っていうのは、なんていうかな……あの、皆さんはね、このカイラスに来てるとそうなるかもしれないけど、あの、なんていうかな、真理をね、本当に悟るには、ユーモアが必要です、ユーモア。あの、これは「宇宙的ユーモア」って言ってるんだけど。本当に宇宙的ユーモアが必要なんだね。これはちょっと、なんとも言えないんだけど。固く、あまり頭固くなりすぎると、本当にその、間違ってしまいます。
 例えばさっきから言ってる、便宜上示された言葉をあまりにもそのままとり過ぎてしまうと、その世界にまた引きずりこまれるんだね。だからユーモアが必要なんだね。うん。今、裸のシャツの話はどうでもいい話なんだけど(笑)。なんていうかな、でもこれによって、示されているものが確実にあるんだね。つまり、そんなもんだっていう話だね。

◎すべてを笑い飛ばす

 あの、こういう話を例えば何度もしていくことによって、ちょっとこう崩れてくるものが確実にあるんだね。だから、宇宙的ユーモアっていうのはある意味ちょっと、なんていうかな、全部笑い飛ばすような話なんですけどね。うん。あの、なんていうかな、小さなことってわれわれは笑い飛ばせるじゃないですか。ユーモア的にね。うん。例えば、「え、お前昨日、遅刻しちゃったの?」とかね。でも、それは頭の固い人は「遅刻なんてそれは信じられません」ってなるけども、「えっ何、目覚ましかけ忘れたの? お前!」みたいなね(笑)。そういうのは、例えばあるかもしれない。ね。あるいは、いやあ、ちょっと先輩の足踏んじゃいましたと。そしたらその先輩が、「ああ、気持ちいいな」とかね。ちょっとそういうなんか、小っちゃなユーモアはある。でもそうじゃなくて、宇宙的ユーモアね。うん。つまり、この輪廻そのものが笑えてくるっていうか(笑)。

(一同笑)

 「なに? なにハマってんの!?」みたいな(笑)。「なに煩悩にハマっちゃってんの?」と。なに、幻影――しかもわけ分かんなくなってると。われわれは真我であったと。ね。完全なる純粋なる真我だったのに、輪廻の幻影に巻き込まれ、しかもなんていうかな、こう、「真我だけど巻き込まれてる!」っていう感じでもないよね、今ね。われわれは完全に巻き込まれてるでしょ。全くわけ分かんなくなってる。「なに、わけ分かんなくなってんの?」と(笑)。
 あのさ、ちょっとまた、全然違う話をするよ。全然違う話をすると――あの、この話すると、「何言ってるんですか?」って言われるかもしれないけど(笑)。わたし、小っちゃいころっていうか、高校生ぐらいのときの思い出としてね、高校生ぐらいのときに、あの――本当これ、最初に言っとくけど、くだらない話ですよ(笑)。

(一同笑)

 くだらない話なんだけど(笑)。あの、高校生ぐらいのときに、うち、弟がいてね。弟が二人いるんだけど、上の弟は二歳下で、下の弟が八歳下なんです。だからかなり離れてるんだね。高校生のときに小学生で。で、わたしその歳の近い弟とはあんまり仲良くなかったんだけど、その歳の離れた小学生の弟はけっこう仲良くてね、よく、まあ遊んでたっていうか、よく一緒にいたんだけど。あるときその、二人で家で話してたら、テーブルの上に水が入ったコップが置いてあってね。うん。で、それをわたし飲んだんです。飲んで、置いたときに――それをわたし、自分で汲んだように思ってたんだけど、わたしが汲んだ水じゃなかったんだね。で、それをうちの弟が、「なに、人の水飲んでんの?」みたいに言ったんだね。「誰の水飲んでんの?」みたいに言って、その瞬間から、笑いが止まらなくて。お腹抱えて、二人でもう何十分か笑ってたんだね。「なに、誰の水飲んでんの?」みたいな感じで、「わっはっは」(笑)。……こういう感じで、輪廻を見る(笑)。

(一同笑)

 「なに、なに輪廻にハマってんの?」みたいな(笑)。うん。まあ、すごいくだらない話だけどね。でもまあなんていうかな、それくらいの――だから本当に、自分の煩悩とかあるいは苦しみなんて、そのくらいの程度に思わなきゃいけないんです。「いやあ、本当にあの人にこういうふうにいじめられた」とかね。「あの人はわたしを嫌ってる」とか。あるいは、「わたしはこんなことばっかりあって、人生苦しくて」と。……どうでもいいじゃないかと。ね。われわれは、もう一回言うけども、純粋なる真我であると。純粋なる真我であって、なんていうかな、本来はなんの相もなく、というかなんの苦もなく、二元性からも解放されてるはずのわれわれが、なに今そんなところにハマって、嫉妬であるとか憎しみであるとか、あるいはすごい不満であるとか、そんなところにハマってるんだ? っていうね、ちょっとこう、なんていうかな、お腹を本当に抱えて笑ってしまうような、まあ大らかさともちょっと違うんだけど、柔軟性っていうか。それが必要なんだね。
 そういうなんか、ベーシックな発想があって。うん。ベーシックな意味で、この全世界をちょっとユーモア的にとらえる心があって。で、その上でその、もうちょっとこう、なんていうかな、緻密な教えとかが入ってくると、われわれの心は崩壊しやすくなります。
 すごい固い心があって、日々のいろんなことにとらわれている人がですよ、教えを学んだって、崩壊しません。すべてをその、ネチネチとこう、固く固くとらえてしまうと。
 だから普段から、なんていうかな、もちろん自分の煩悩なんかどうでもいいと。あるいは自分のけがれなんかどうでもいいと。どうでもいいっていうのはその、とらわれないと。あるいは自分の苦しみなんかどうでもいいんだと。ね。「わたしは、」――皆さんの場合ですよ、皆さんに当てはめると――「この素晴らしいバクティの教え、あるいは菩薩行の教えに出合ったんだ」と。ね。これこそがわたしの、なんていうかな、価値ある生き方であって。価値ある道であって。自分の生まれてきたただ一つの意味なんだと。なのに、ですよ。「わたしは菩薩なのに、何やってんの、おれ」とかね。「わたしは菩薩なのに」――ね。わたしも何度もそういうことあったよ。例えばあの、なんかこうとらわれちゃってね、「これはちょっとどうしよう、どうしよう。ああしよう、明日こうなってこうなって」って思うんだけど、ふと振り返ると、「あ、おれ、菩薩じゃん」と。ね(笑)。あるいは、「あれっ、おれ、だって神にすべてを捧げるとか言ってたじゃん」と。だから笑えてくるんだね。「おれ、バカじゃん!?」みたいな感じで(笑)。神にすべてを捧げるとか言ってたのに、明日あの人に言われたらどうしよう、とかね。何言ってんだ? みたいな、そういう感覚ね。
 そういう、なんていうかな、すべてを笑い飛ばして――つまり自分のそのけがれさえも――笑い飛ばすっていうのは、笑いで誤魔化すっていう意味じゃなくて、本当の意味で「笑い飛ばす」っていうことです。うん。自分のけがれ、煩悩っていうものを「笑い飛ばす」んです。笑い飛ばすっていうのは、ふっ飛ばすっていうことですよ。笑いによって、ふっ飛ばす。いいじゃないかと。そんなのは関係ないんだってふっ飛ばすと。こういう、なんていうかな、柔軟性が必要だね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする