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解説「菩薩の生き方」第二回(2)

 はい。で、ちょっと話を戻しますが、その一番最初の、まずわれわれが考えなきゃいけないことがこの「人間に生まれることの稀有さ」っていうことですね。で、その「人間に生まれることの稀有さ」っていう論理を、エゴ、自分のエゴに納得させるために、今言ったようなきめ細やかなこの仏教的な輪廻の論理があるわけだね。で、これはここにも書かれてるように、お釈迦様にしろ、あるいは古の大聖者方はみんな、当たり前のようにっていうかな、この輪廻転生のことを説いてる。それはなぜかっていうと、みんな見てるからです。しっかりと皆さんが修行すれば、当然輪廻転生っていうのは経験できます。
 例えば宿明通によって、瞑想によって自分の過去世を思い出したりとか、あるいは死生智っていう瞑想によって、まあ、死んでどうなるかっていうすべてのプロセスを瞑想で経験することができる。いわゆるチベットでいうバルドのヨーガですね。こういった経験によって、輪廻転生の実在っていうのがよく分かってくる。そしてその輪廻転生の実在の上に立ってその法則性っていうのを分析すると、最初から言ってるように、人間っていう存在に生まれることが非常に稀であると。で、稀であって、かつ人間じゃないと修行できないと。ね。このすごい条件があって、で、「あれ?」って今の自分を見ると――もちろんこれにはもっと条件が乗っかるよ。ここではまだ説かれてないけども、人間に生まれただけじゃ駄目だよね。人間に生まれて、ダルマとの出合いがあって、まあ、ダルマを教えてくれる師や、あるいは仲間との出会いがあって、で、自分もダルマに興味を持つっていう条件があって。で、いろんな細かい条件も挙げればきりがないけども、自分は修行できるっていう環境的条件もあって、全部揃って今があるんだね。で、こんなチャンスは二度とないかもしれない。だったら今しないでいつするんだっていうのが、この考え方だね。
 「今しないでいつするんだ」っていうのはすごく大事なことなので、このエッセンスは皆さん心に根付かせておいてください。わたしも、何回も言ってるけど、若いころ、よくいろいろ考えたことがある。若いころっていうか、わたしはいつも言ってるように、中学生ぐらいから修行してるから――まあ中学生ぐらいから、そうだな、最初はもちろん、遊び心とか怠け心とかもいっぱいあったから、すべてを修行に懸けるっていう感じに最初からなれたわけじゃないけども、でもだんだんやっぱりそうなっていったわけだね。で、例えば、そうだな、高校生のときとかも――よくクラスの友達とかがね、「今日終わったら誰かのうちで飲み会やろーぜ!」って。あれ? 高校生なのになんで飲み会なんだって今ふと思ったけど(笑)、まあそれはいいとして(笑)、「飲み会やろうぜー!」とかね。あるいはうちは男子校だったんで、ちょっと古いけどね、感覚が。「ちょっとあそこの女子校のところにナンパしに行こうぜ」とかね(笑)、いろいろ誘われるわけだけど、全部わたしはそれを蹴って、うちに帰って修行してたんだね。つまり、ある意味、なんていうかな、ヨーガとか修行っていうものに青春を捧げてきたっていうか。もういろんな人がいろんなところで、遊びたい、楽しみたいって思ってるのを全部蹴ってきたっていうかな。でもそのときに自分の中でやっぱり、寂しさが出るときがあると。で、そのときによく自分に言い聞かせたのが――まあ、なんとなくだけども、わたしはやっぱり、はっきりとは分かってなかったけども、過去世の記憶とか、あるいは今生生まれてきた意味みたいなのが、うっすらとはなんとなくフィーリング的に分かってた。で、それから言うとですよ、確実に輪廻転生っていうのはあると。で、わたしはひたすら輪廻を繰り返してきたと。
 で、ちょっと変な話だけども、何回も言ってるように、わたしは小さいころから例えば虫が殺せないとか、人の、嫌悪とか怒りの感情がよく分からないとか、まあそういう子供だったんだけど。それだけじゃなくてね、そうですね、ある時期まで、ほとんどわたし、望みが叶ってました。望みが叶ってたっていうのは、子供のころに――子供のころって社会のことが分かんないじゃないですか。社会が分かんないから、そういうもんだと思ってたんだね。そういうもんだと思ってたっていうのは、願ったことって叶うんだなと。ね(笑)。願ったことが叶っちゃうんだね。「ここに行きたいなー」とか子供のころ思うと、まあ、ちょっと後でですけどね、数カ月後に連れて行ってもらうとかね。「これが欲しいな」って思うとそれが集まるとかね。なんかそういう感じもあった。で、そういうのを鑑みた場合も含めての話なんですが――わたしは多分、ね、これ何回か言ってるけどね――過去世において相当遊んできたと。遊んできたっていうのは、相当現世的な快楽は経験してきたはずだと。で、今度は未来のこと考えた場合、ね、来世もわたしは例えば、菩薩としてまたこの地上に生まれた場合、毎回ね、その目覚めるまでの時間があるから、今生はわたしは中学生ぐらいで修行に入ったけども、まあ、いつもそうとは限らないよね。二十歳ぐらい、三十歳ぐらい、四十歳ぐらいで修行始めるかもしれない。それまでは遊べる。変な言い方すれば(笑)。真理を知らないから(笑)。真理を知らないから、それまでは遊べる。でも、今生は出合っちゃった(笑)。ね。出合っちゃったと。もう出合ったら、もう観念するしかないんだね。覚悟を決めるしかない。もちろん、出合っちゃったっていうか、それは出合えたことは素晴らしいんですけども、出合えたことは奇跡なんだけども、でも別の言い方すると、出合っちゃった(笑)。出合っちゃったらもう覚悟決めるしかない。もうなんか妥協してる隙みたいなものはわたしには許されていない。よって、エゴに対するこれはちょっと妥協案なんだけど、「おまえ、来世また遊べるから、いいじゃないか」と(笑)。「今生はもう諦めろ」と。ね。
 今生はこの、偉大なる、出合うのが稀なダルマに出合っちゃって、しかもさっきから言ってるように、人間の体を始めとした最適な条件も得ちゃったと。これでやんなかったらいつやるの?と。ね。こんな最高の条件を与えられてて、躊躇する心があるとしたら、それはもう、できるときがないじゃないかと。だってこれでやんないんだったら、もっと悪い条件のときはもっとやらないでしょ、当然。こんないい条件のときにやらない人が、もっと修行しにくいような環境、あるいは知性のまだ低い状態とかね、その状態っていうのがあったとして、それはまあ、当然やりませんよ。だから今与えられたこの条件っていうのが――よく仏教でも例え話で出されるのは、盲人がですよ、つまり目の見えない人が歩いてたら、たまたま蹴躓いて、転んじゃって、バッて倒れたときにそこに宝石があったと。ね(笑)。そんなもんなんだと。つまりわれわれは無智で何も分かんない状態でこの人生を歩いてて、たまたまなんか苦しんだり蹴躓いたりしたら、「あれ? 真理があった」と(笑)。ね。これはつまり、なんていうかな、自分が分かってて「こうで、こうで、こうで、こうで、あ、やっと真理にたどり着いた!」じゃないんだね。「え? 来ちゃった!」みたいな世界なんだね。「来ちゃった。いいの?」っていう大チャンス。
 これはいつも言ってるけどさ、よくチャンスとか、あるいは、そうですね、稀な機会とかいう言葉を一般的にも言うけども、一般にいわれるそんなことなんてもう、比べものになりませんよ、当たり前だけどね。例えば、当たり前の話だけどさ、パチンコでゾロ目が出たとかね、もう比べものにならないから。当たり前だけどね(笑)。あるいは例えば、仕事を進めててね、例えば何億っていう取引のチャンスが来たと。これは千載一遇だと。普通はこんなことはないと。これをものにすれば、うちの会社は何十倍にも大きくなるかもしれないっていうチャンスが例えばあると。例えばあるいは、芸能人とか、あるいはなんらかの才能の世界に生きてる人が、それを買ってくれる人が現われたと。自分が世に出る千載一遇のチャンスがやって来た!って興奮するかもしれない。――全く比較になりません。そんなのはどうでもいい。そんなのは全部吹っ飛ぶぐらいの、もうあり得ないぐらいのチャンスなんだね。皆さんはだからそういった現世的なチャンスには興奮して飛びつくかもしれない。「このチャンスを逃したら」っていうのは一般的によく使われるわけだけども、そんなのはどうでもいいぐらいの話です。この真理との巡り合いとかね、ダルマとの巡り合いっていうのはね。
 何度も言うけどさ、例えばさっきから話してる『ラーマーヤナ』の話、ね。あるいは――まあ皆さんそれぞれここにこうしているっていうことは、多くの人がなんらかのダルマの喜びっていうのを感じたことがあると思うんだね。ある人は今日言ったような『ラーマーヤナ』にあるような、まあ、ちょっと、なんていうかな、人智を超えた素晴らしいダルマに心が打ち震えるかもしれない。ある人はバクティの純粋さに感動したかもしれない。ある人は『入菩提行論』が説くような、この素晴らしいダルマの世界に感動したかもしれない。ある人は、そうだな、ヨーガの世界の、なんていうかな、この求道的な世界に感動したかもしれない。まあ、それぞれいろいろあると思う。でも逆に言うと、これなかったらどうします? 皆さんがもしこの人生で、これらに出合えてなかったらっていうのを考えると、まあ、皆さんはどう考えるか知らないけど、わたしはやっぱり――わたしは昔よくそういうことを考えた。やっぱりそれはぞっとするね。ぞっとする。一切のダルマに出合えなかったらどうする? この、本質的なヨーガ、あるいは本質的な仏教の教え、あるいは、ね、さっきから言ってるサナート・ダルマ――すべてを貫く言葉にできない真理っていうものに、皆さんが一切触れられないで今があるとしたら、どうなってます? 例えばT君はいまだにアジアのどこかで頭ドレッドにして踊ってるかもしれない(笑)。

(一同笑) 

 でも先はないよね。先はないっていうのは、そんな遊んでずーっと一生暮らせるわけじゃないから(笑)。日本に帰ってきてお母さんとかに怒られて頭剃って、ダルマも修行も知らずに暮らしてたかもしれない。
 S君も、いまだにダルマも知らずに踊ってるかもれない。あるいはYさんと出会って、なんていうかな、瞬間的には楽しかったかもしれないけども、でもそこにダルマがなかったら――まあ多分ダルマがなかったら、今もう別れてるかもしれないね(笑)。

(一同笑)

 でもまあ、人間なんてそんなもんです。うん。人間なんてそんなもんで、嫌な部分が見えてきて――つまりダルマがあれば、心が純粋化されて、うまくいくかもしれない。でもダルマがなかったら、相手の嫌な部分が見えてきて、エゴが出てきて、何が正しいかもよく分からないから、お互いに相手を批判するだけで終わってしまう。
 ダルマがなかったらって考えると、やはり非常に恐ろしいんだね。で、それを逆説的に考えると、今ダルマに巡り合ったっていうのは非常に、歓喜に打ち震えると。
 前もちょっとこの話したけど、ちょっとこの話、通じるか分かんないんですけども、わたしのパターンで言うとね、わたし、前も言いましたけど、学校が嫌いだったんだね。みんなもそうかもしれないけど。小、中、高と嫌いだったんだね、全部ね。嫌いだったっていうか、友達との遊びとかはあったけども、学校自体がすごく嫌いだった。学校行くのがすごく億劫だったわけだけど。学校卒業して、東京に就職したわけですけども、そのころ――よほど学校嫌いだったんだろうね。就職して、まあ寮で一人暮らしを始めたんですが、朝、よくこう思う精神状態があって。その精神状態っていうのは、朝パッて起きますよね。起きたときに、布団の中でね、「ああー、今日も学校か。だるいなー」と。「全くもう……」って思ってて、ハッと気付く。「あれ? おれ卒業したじゃん!」と(笑)。

(一同笑)

 「え? 行かなくていいの?」みたいな(笑)。パーッてバラが開くような感じで(笑)。

(一同笑)

 「やったー!」みたいな。もちろん会社に行くわけだけども、そのころは、まあ、なんていうかな、東京に出てきたばっかりで、ちょっと面白かったから、学校に行かなくていい、あの縛られた空間に「もう行かなくていい!」みたいななんか、思いだしただけでワーってなったときがあった。
 で、それと似た感覚が、昔わたしよくこのダルマに対してあったんだね。つまり、わたしは小さいころからやっぱり悶々と、「真理とは何か?」とか、「わたしはなんで生まれてきたのか?」とかいろいろ悶々と考えてきた子供だったから。で、もちろんいろんな苦しいこともあった。みんなにもよく言ってるように、中学生のころに引っ越したところでいじめられたこともあったし、あるいはいろんな精神的葛藤もあったわけだけども。で、とにかく自分の中で真理を求める気持ちが強かったんですね。だからわたしが中学生のころに、本格的なっていうか、本質的なヨーガの道に巡り合って、「ああ、これなんだ!」って思った喜びっていうのはすごかったわけだね。で、それをたまによく思い出すんですね。思い出すっていうのは、つまり小さいころからこう悶々としてたところがあったから、「いったいわたしはなんで生きてきたんだろう? なんで生まれてきたんだろう?」とか、「この世界とはなんなんだろう?」っていうのがたまにイメージでパッて出るわけだけど、でもハッと気付くと、さっきの話みたいに、「あれ? おれ、出合ってるじゃん!」と。ね(笑)。「あれ? いつの間にかわたしはそれを解き明かすダルマ、あるいはそれを解き明かすための実践法であるヨーガの道に出合っちゃってる!」と。「え? まじ? いいの?」みたいな(笑)、そういう感じがあるんですね。
 でも、これってとても大事なんです。これがあるからわれわれは全霊を込めて打ち込めるんだね。これがなくて、もしわれわれが当たり前のように、つまりヨーガに出合ったこと、ダルマに出合ったことを当たり前のように考えてたら、当然打ち込めないでしょ。「ああ、それは出合ってますよね」と。「まあ、適当にやりましょう」ってなっちゃうわけだけど。
 もう一回、何度も繰り返しますが、われわれがこの人間に生まれ、ダルマに巡り合い、修行できるっていう機会が、なんと狭い道なのかと。なんと確率的に少ないのかと。これを考えることによってわれわれは、もう死に物狂いで、「絶対これを逃さないぞ!」っていう気持ちで修行できるようになるんだね。これがこの論理のエッセンスですね。だからこれをわれわれは何度も考えなきゃいけない。
 だからさっきの話に戻すとね、われわれが、もともと、なんていうかな、心が神でいっぱいで、あるいは真理でいっぱいで、それしか考えられませんと。さっきのギリシュみたいに、死後なんてどうでもいいと。わたしの心には常に師がいらっしゃると。あるいは主がいらっしゃると。あるいはわたしは常に、見えるものはすべて至高者しかありませんと。だから別に死後とか未来とかどうでもいいんですと。病気だってどうでもいいんですと。この境地に達してたら、もちろんそんな考えはいらないよね。でもわれわれはそうじゃないわけです。いろいろくだらない心の問題でいつも悩み――まあ、はっきり言うとこれはエゴだけども。エゴによっていつも不安がり、あるいは恐怖をし、あるいは妄想し、あるいは過去のことでぐちぐちと悔やんだり、あるいはいろんな、ダルマや主、至高者とは関係のないイメージで遊び続けると。こんな状態だったら、当然強制策が必要なわけですね(笑)。これでは全くわれわれがダルマに巡り合った意味がない。よって、もう一回話を戻しますが、きめ細やかな、ね、シャーンティデーヴァが組んでくれたようなきめ細やかなダルマをしっかりとわれわれが学んで、それによってわれわれの心の欺瞞性――つまり本当はわれわれは知ってるわけだけど。「ダルマしかないんだ!」と。「至高者しかないんだ!」っていうのは知ってるわけだけども、それを邪魔してるこのエゴの欺瞞性を、『入菩提行論』に代表されるようなきめ細やかなダルマで、一個一個打ち破っていかなきゃいけないんだね。

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