解説「菩薩の生き方」第三十三回(2)

はい。それから次が、これもよく出てくる問題だけど、「男子を伴わない女人に説くなかれ」と。
これに関しては、ここに書いてあるように、もともとインドは男尊女卑であると。で、もともと修行も、男性のものであると。あるいはもっと言えばカーストの高い者ね。つまり限られた者のためのものだったわけだね。しかしもちろん仏教は、カーストは全部否定したと。教えは誰でも受けられますよと。あと、そうだな、伝統的なヴェーダとかは、ヴェーダーンタとかは、カーストが上の者しか学べなかったけど、タントラであるとか密教であるとか、そういう世界になってくるともうカースト関係ないですよと。誰でも学べますよ、ってなってきたけども、仏教もある段階まではやはり、ちょっと男尊女卑的な部分を持ってたんですね。これはもちろん、そうだな、ある意味では現実的、ある意味では時代的なものと言える。ある意味で現実的っていうのは、これはお釈迦様も何度も説いているように、実際に女性の持ってるさまざまな――ここにも女性多いからあんまり大きな声で言いたくない話だけど(笑)、「依存心、無智、執着、嫉妬、etc.」と書いてあるけども、まあ、つまり、本質的に女性が持ってる修行のマイナスとなるような要素は確かにあると。ただね、お釈迦様の時代から、皆さんも知ってるように――お釈迦様も実は最初、女性を受け入れなかったんだね。女性には難しいと。しかしまあ、アーナンダとか弟子のお願いによって――つまりお釈迦様の育ての母とか、あるいはお城の女性たちが、出家を願ったわけだね。「どうかわたしたち女性にも、悟りの道をお与えください」と。最初お釈迦様は、「いや、それは女性には難しいだろう」って言ったんだけど、アーナンダとかが「お願いします」って言って、お釈迦様は受け入れたんだね。それによって実際に多くの女性の大聖者が――もちろん男性よりは少なかったけど――女性の大聖者が、原始仏教の時代からたくさん現われた。もちろんそれは大乗仏教にしろ密教にしろ、もちろんヨーガの世界、ヒンドゥー教の世界でも――この間やったアーナンダマイ―・マーなんてもちろんそうですけどね――女性の聖者がたくさん出たと。ただもちろん割合としては少ない。つまりもともとの要素としては、繰り返すけど、まあ女性っていう一つのフォームを取った人間が持っている、それはもちろん過去世からのものかもしれないし、あるいは今生のDNA的っていうか――つまり今生生きるっていうことは肉体に一応結び付けられるから、肉体の特徴としての女性的要素かもしれないけども、それが、もともとはちょっと修行には向いてませんよ、という部分があったんだね。
ただね、バクティは結構女性の方が向いてます。だからカイラスも女性が多いのかもしれないね。もちろん男性も向いてるけど、もともと――こういうさ、実際は、現代においてはあまり意味がないってここでは書いてあるけど、現代においてはあまりそういう要素は、特徴っていうのはちょっと薄れてきてるような気がするね。つまりここで言いたいのは、男性の方が結構、自分の意志によって何かを成し遂げるとか、あるいは論理的に物事をとらえて、分析して、正しい道を行くとか、それに非常に合ってるんだね。で、女性っていうのは依存心が非常に強いと。根本的にね。でもバクティっていうのは高度な、高位の依存ですから。だから実は女性の方が向いてる。つまり全部神に投げ出せれば最高なわけだから。これは密教もそうだけどね。でも現代においては、必ずしもそうとは言えないですよね。男性でもそういうバクティ要素を非常に持ってる人は、カイラスを見ても多いし、女性でも逆に非常に意志が強くて物事を切り開いていく人とか、あるいは男性以上に論理的に物事をとらえられる人とかもたくさんいると。だからあんまり現代においては、ちょっと意味がなくなってきてるかなっていう感じがするね。しかし繰り返すけど、昔のインド社会においては、こういう――つまり修行するのは男性であって、女性はその恩恵を受けるみたいな、そういう基本的な発想があったので、その時代背景も入れてのことなので。ですから、現代においてはあまりこれは考えなくていいかなっていう気がするね。
ここにも書いてあるように、密教とかになってくると逆に、女性はダーキニーの性質を持つんだと。ダーキニーっていうのは、ダーキニーイコール母なる女神といってもいいんですけども、つまり女性の持ってる最も――つまりこの宇宙っていうのは陰陽、つまり男性的要素と女性的要素の根本的なものからできてると。で、その女性的要素が完全に昇華されたとき、それは母なる女神だったり、あるいは密教でいうダーキニーとかになるわけですね。で、その昇華される前の、まだけがれは含んでるかもしれないけども、しかしその昇華される要素を持った存在がこの人間界にもいる女性たちだから。で、それを劣ってるとか言ってばかにすると、その本質であるダーキニーまでばかにしたことになっちゃうから、よって密教では女性を軽蔑してはいけないと。女性のことを男性よりも劣ってるとか言ってはいけない、みたいな教えがあるんだね。
はい。そして、ここにも書いてあるように、その問題だけではなく、繰り返すけど、現代においてはかなり、ちょっと時代が変わってきてるから。経済的な意味でもそうだし、社会的な意味でも女性の力が男性よりも劣ってるとか、女性は単に男性についてくだけとか、そういう時代じゃなくなってきてるからね。で、もちろん繰り返すけどカイラスにおいても、ね、数的には女性が強いし、実質的にも女性が強いですよね(笑)。
(一同笑)
なんか女性の方が強いと(笑)。だからその辺は、現代においてはあまり考えなくていいかなっていう部分ですね。
ただし、このあとに書いてるのは、これもよく話してるけども、こういう話っていうのは、つまり別にフェミニズム的に、つまり男女平等とかそういうところにはまる必要もない。つまり何を言いたいかっていうと、今わたしが言ったのは、客観的な話です。客観的な話ね。客観的には現代では、特に修行っていう世界では、あまり男女のそういう差とかは考えなくてよくなってますよと。だから現代においては「女性に法を説くなかれ」とか、そんな教えはもういらないと。これはね、客観的な話です。実際に客観的にそうですよと。
で、次の問題として、女性の主観的な問題として、女性はじゃあこの、ひたすら原始仏教や大乗仏教でいわれてる、「女性は劣ってるよ」論をどうとらえるか。これを女性自身までも、つまりフェミニズム的に「それは男尊女卑だ!」と、「わたしたちは劣っちゃいない!」――これは駄目です(笑)。つまり女性側は謙虚にとらえるべきだね。つまり繰り返すけど客観論としては、もうあんまりそんなの関係ないですよと。男女で優劣があるっていう時代ではないと。特に修行においてはね。しかし女性はそういうのを見て、「あ、お釈迦様は、女性は非常に依存心が強いとか無智だとか執着があるとか、嫉妬心とかいろいろ言ってらっしゃる」と。で、「大乗仏教でもそういうふうにいわれてる」と。「そうだ」と。「確かに自分を振り返ると、いろんなそういう心のけがれがいっぱいだった」と。そう感じて、それを謙虚に受け止めて、よって、わたしは女性だから、男性以上に頑張ろうと。つまり持って生まれたいろんな悪い要素があるから、男性以上に頑張ろうと思って、そういう気持ちで、つまり男性修行者の何倍も頑張るという気持ちで修行すると。しかしですよ、繰り返すけど、実際はあんまり男女変わらなかったりする。この場合、この女性はすごく進むよね。うん。男性は逆に、「おれは男性だ」と(笑)。
(一同笑)
「今生、男性に生まれてよかった」と。「お釈迦様とかも『女性は駄目だ』とか言ってる」と。「あいつらは(笑)、確かになんか嫉妬したりおしゃべりだったり、もうどうしようもねえな」と(笑)。
(一同笑)
どうしようもねえなって言って(笑)、どうしようもねえなって言いながら、自分はちょっとこうあぐらをかいてね、努力しないと。で、いつの間にか女性に越されてるというふうになっちゃうよね。
だから実際こういう教えは、何度も言ってるけど、謙虚になった者勝ちです。謙虚になって、「人の何倍も頑張ろう」と思った者は、実際に何倍もステップアップする。だからこの辺はそういう、一つの注意ですね。実際にはそんなに、現代では男女で修行のやりやすさとか変わらないんだけど、でもこういうふうにひたすら説かれてる女性側は、ぜひ謙虚にそれを受け止めてね、確かにその女性的なそういう要素って、振り返ると自分にもあると思う人多いでしょう。「ああ、確かにわたしは嫉妬のかたまりであった」とか、「口が悪かった」とか、「ひたすら噂話で時を過ごしてた」とか、いろいろあると思うんだね。そういうのを反省して、「だからもう何倍も頑張るんだ」という気持ちを持ったら、最終的にはそういう人の方が成長するっていうかな。
これはいつも言ってるけど、男女の話だけじゃないですよ。皆さんがそういう例えばコンプレックス、あるいは自分の悪い部分をしっかり認めて、で、それを、もちろんごまかすのでもなく、あるいは単に卑屈になるんでもなくて、よって人の何倍も頑張ろうと思う人は、将来的には、その部分において、逆に秀でた人になります。
この話は何度もしてますよね。例えばある人が、わたしは人に冷たいと思って、もうひたすら人への愛を発する。人のために生きる。人の幸福を願う実践をいっぱいしようと。みんなもしてるんだけど、でもわたしはもう人より何倍も冷たいと。だから人の何倍も頑張んなきゃいけないと思ってやってたら、最終的には、人の何倍も慈悲のある人になります。
これがここでいう慙愧と不放逸っていうやつなんだけど。つまり慙愧を持った者は、不放逸、真剣に努力すると。自分のこういうところが駄目だから人の何倍も頑張んなきゃいけない、って真剣に思った人は真剣に努力するから、結果的には、なんていうかな、その同じ部分において人よりも優れたものになっちゃうんだね。
つまり何を言いたいかっていうと、人の優劣なんて、どんぐりの背比べみたいなもんです。ブッダから見たらね。ね。ブッダから見たら、わたしは劣ってるとか優れてるとか言ってるのはほんとにどんぐりの背比べ。で、一つの法則としては、真剣に努力した者は成長する。で、その真剣に努力するための糧として、この慙愧ね、謙虚さ。自分はこういうところが駄目なんだ、だからなんとかしなきゃいけないっていう真剣な思いがあれば、その人はその部分、実際には大変成長しますよ、というところだね。
はい。だから、まとめるけどね、女性の方が劣ってるっていうのは、客観的には現代においてはあまり意味をなさないので、女性には深遠な教えを説くな、なんて話は、現代においては除外した方がいいと思う。しかしこの話を聞いた女性の方たちは、逆にそれを受け止めて、で、自分を顧みて、確かにお釈迦様とかが言ってるような、女性の悪いところは自分にいっぱいあるんだと。よって、何倍もそれを努力して乗り越えるぞ、って謙虚に考えたら、怠けてる男性よりも、速やかに進むと。
で、男性は、怠けない(笑)。なんかお釈迦様が、ねえ、男性はなんか比較的優れてるようなこと言ったから、それにあぐらをかくんじゃなくて、よりいっそう頑張ろうと。よりいっそう、自分のいい部分を伸ばして、悪い部分をしっかりと乗り越えようと考えるってことですね。
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