解説「菩薩の生き方」第三十一回(2)

はい。そして、煩悩の対治。昨日の説法でもあったように、煩悩、あるいは心の欲望、これがわれわれの苦しみの原因であって、あるいはさまざまな過ちの原因であると。だから逆に言えば、それを――対治というのは対抗治療ですけども、徹底的に駆逐することによって、逆に、われわれが幸福になるような条件が整っていくと。はい、これが二番目の話ね。まず信仰心をしっかり持って、そして煩悩をしっかり対治する。
はい。そして次に、田地、田畑という言い方をされているけども、まずブッダや菩薩方、これは功徳の田畑あるいは田地なんだと。まあこの田畑とか田地とかいう言い方は、原始仏教からよく使われている言葉なんですね。つまりブッダとか、三宝――ブッダとかブッダの教えとか、あるいはサンガといわれるブッダの弟子たち。これは、田畑、あるいは田地であると。つまり、われわれはそれに対して供養したり、あるいは帰依をしたり、あるいはその教えを実践したりすることによって、素晴らしい作物が生じる。その、なんというかな、素晴らしい土壌となってくださるお方、それがブッダや菩薩方であるということですね。
はい。次に恩徳の田地、田畑という言い方がされている。これは父母であると。はい。これはいつも言ってるように、われわれは当然父母に恩がある。もちろん条件によって、父母以外の人の場合もあるけども、つまり、まず父母は絶対的な条件として、肉体を生んでくれたっていうのがあるよね。うん。一切は因果であって条件なので、いつも言うように、皆さんがもし、皆さんのお父さんお母さんが産んでくれなかったら、今の皆さんの少なくとも肉体はないですよね。で、今皆さんはそのお父さんお母さんがつくってくれた肉体を使って修行をしているわけだから。ね(笑)。これは大変な恩がある。で、しかも、肉体をつくってくれただけではなくて、育ててくれた。これもいつも冗談みたいに言っているけど、小さいころにお父さんお母さんが育児放棄してたら、あるいはぞんざいに育てられた人いるかもしれないけど、まあ、ちょっとぞんざいぐらいだったら逆にたくましくなるかもしれないけど(笑)。じゃなくて非常に、ね、ほったらかし、あるいは虐待され、何か障害が残ったかもしれない。そうなると修行はできない、あるいは修行はやりにくかったかもしれない。しかしわれわれの、というか皆さんの――もちろん、産んでくれたのはお父さんお母さんだけど、ほかの人に育てられた人もいるかもしれない。その場合はもちろんその人でいいんですけど――つまり自分を産んでくれた人、そして無事に今まで育ててくれた人。これは大変な恩がある。なんでかというと、われわれは今生というか、この世で修行するにはやっぱり肉体が必要だと。肉体にとらわれてはいけないんだけど、肉体は必要であると。この肉体を生み育ててくれた人がいたから、われわれは今修行ができるんだと。
だから、皆さん、修行者とはいえ、なんというかな、いつも言うように、近い関係ってすごくエゴが出やすいからさ、皆さんもお父さんお母さんのことを考えたとき、ちょっとイラッとしたりとか、ちょっと許せない部分とか、なんていうかな、怒りが出る部分とか、いろいろあるかもしれないけども、しかしそれはそれとして、大いなる恩があるんだと。それを常に考えなきゃいけない。
ただですよ、この仏教の、まあヨーガでもそうだけど、仏教のいろんな教えを見ているとさ、皆さんは、この両親、つまり親というものに対する考え方に、二面性があることに気付くと思う。つまりいろんな教えを学んでると結構真逆なことを言っています。つまり一方ではこのように、今言っているように、親というのは本当に恩があるわけだから大事にしなさいと。で、もう一方では、両親を捨てよと(笑)。両親を捨てないと始まらないと(笑)。うん。で、これはもちろんどっちも真実です。どっちも真実というのは、前者はもちろん今言ったように論理的に真実ですよね。だって親に恩があるわけだから。それは絶対なる真実であって。ただ後者は何を言ってるのかというと、だからといって執着していいわけじゃないんだよね。うん。しかも、これはもちろん性格とか、あるいは縁にもよるけど、親っていうのはもちろん、執着した場合、最も執着が強くなりやすい対象でもありますよね。うん。だから――つまりさ、今、前者で言ったのは、親というのは大変な恩を受けている人ですよと。でもそれは、大なり小なり、われわれはあらゆる人に恩を受けて今まで育ってきているわけですよね。それはみんなにもその目を向けなきゃいけない。で、もちろん親は、繰り返すけども、根本である肉体をつくってくれた、そして育ててくれたという意味で、大きな恩を受けていることになる。だからといって――つまりこの恩というのはさ、別に、なんていうかな、恩着せがましい世界じゃないからね。うん。「いやちょっと恩あるから、両親がいろいろ言ってきたらもう言うこと聞くしかない」とか、そういう世界じゃなくて(笑)、恩があるからこそ、われわれは全力で両親のために頑張んなきゃいけない。
で、いつも言ってるけど、その頑張ることの一番最高はですよ、親を修行させること。これは最高です。もちろんカイラスの中でも、親を導き、一緒に修行している人たちいるけども、それは素晴らしいことだね。親を修行させる。それは最高の恩返しになります。で、それが難しい場合。あるいはちょっとは修行してるけど、そんなにまだ本格的ではない場合とか。その場合の次の手としては――次の手っていうのも変ですけども、もう一つの根本的な話は、いつも言うように、皆さん自身が修行をすると。あるいは修行を進めると。それは先ほどから言っている因果関係において。いつも言っている話だけどね、もう一回言うと、つまり、皆さんが修行して聖者とかになったとしたらね、うん。すべては因果ですから。さっきから言っているように、それは、お父さんお母さんが産んでくれたから、そして育ててくれたから、というのは条件として入っているわけだから。だから例えば聖者が誕生したと。それは、例えばT君が聖者だったとしたら(笑)、そのお父さんお母さんが産んでくれなかったらTという聖者誕生はならなかったと。もちろんいろんなほかの条件もいっぱい入ってるよ。いっぱい入ってるけども、そこのピースが抜けたら駄目ですよね。いくらT君が頑張るっていう条件があったとしても、産んでくれなかったら(笑)、そもそも駄目ですから。だからそのピースを最初に作ってくれたという因があるんだね。うん。因があるっていうのは、すべてはカルマだからね。われわれが何かやったことが返ってくるから。で、つまり間接的ではあるけども、自分が産み育てた子供が素晴らしい状態になったら、その果は、果報は――もちろん百パーセントじゃないよ。百パーセントじゃないけども、まあ数学的になっちゃうけどね。そこに関与しているその因の分だけ返るんですね。
だからこれは何度か言ってるけど、逆のパターンも当然あります。つまり産んだ子供が悪人になったら。悪人といっても別に社会的な意味での悪人じゃなくて、カルマに照らした悪人ね。例えば社会的なっていうのはさ、いろいろあるけど、ね、例えばよくネットとか見ると思うけどさ、芸能人がコカインをやったと。みんなボロクソに叩くわけだね。「あいつは!」とか言って。別にいいじゃんと(笑)。別にいいじゃんっていうか、法律じゃ駄目だけど、そんな、性格や人間性までをもさ、叩くような話じゃないよね。だって国によっては許されているところもあるわけだから。別にここで薬物がどうこうって言ってるんじゃなくて、そういう法律では悪だけど、別にカルマとしてはそこまでじゃないというのはたくさんある。だからそれは別にいいんですけども。そうじゃなくてカルマ的に、例えば多くの人の心を苦しめたとかね。多くの人を傷付けたとかね。あるいはもっと最悪なのは、多くの人の修行の足を引っ張るとかね。いろんなかたちでその子供が悪をなしたとしたら、その悪業もさっきと全く同じ理論で親に返ります。全部じゃないけどね。何割か返ります。だから子供を産むっていうのは大変な賭けだね。
(一同笑)
だから株みたいなものです(笑)。
(一同笑)
ね(笑)。それが将来どうなるか分からない。うん。非常に――だから、話を戻すけども、それはじゃあ皆さん自身にとって考えたら、つまりさっき言った、聖者になれば親に返るというのと同じ理屈でね、皆さんが悪業積んだりしたらそれは自分だけの問題じゃないと。よく、「いや、おれの人生だからいいじゃないか」と言うかもしれないけど、実際にはいろんな人の因果が絡み合っているから。自分が悪を積むことによって、変な話、迷惑をこうむる人がたくさんいると。うん。その際たるものが親だね。
で、ちょっと話を戻すけど、親は、カルマという意味でいったら大きな恩を受けている相手であると。その恩を返さなきゃいけない。しかしそれは別に表面的に執着したり、優しくしたりということではなくて、根本的に、まあ、親を修行させるとか、あるいは自分が修行頑張ることによってその恩を返すとかね。うん。そういうことを考えなきゃいけない。
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