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解説「菩薩の生き方」第五回(4)

◎過去世から持ってきた宝物の確定を

 逆に言うと、ほかのものは補助的です。まさにヴィヴェーカーナンダとかギリシュとかが言うように。「ラーマクリシュナの弟子たちは誰もニルヴァーナなんて求めていない」ってはっきり言うわけだけど。解脱とか悟りとかサマーディとかニルヴァーナっていうのは、補助的です。いつも言うけど、ほんとにそういう意味ではカイラスってレベル高いよね。「サマーディ? あ、補助、補助」と(笑)。普通はもう「サマーディがすべて!」みたいな感じで「ニルヴァーナ! サマーディ!」って言うわけだけど、「あ、サマーディ? おまえはそんなつまらないものを求めているのか!」――これはラーマクリシュナの真似したわけだけど(笑)。そういう感じなんだね。
 もちろんそれは、必要があればサマーディは与えられる。必要があれば、そのときに応じたいろんな悟りが与えられる。でもそれは、それが目的じゃないんだね。もう一回言うけども、目的は一つは、いかに衆生を救うための道具になれるか、そしていかに神に完全な明け渡しができるか、あるいは、まあ、もう一つ言うならば、神のしもべとして、いかに神のお役に立てるかと。だからこれはもちろん合体させてもいいね。つまり、この世には神しかいないと。そして、わたしは神のしもべであると。そして、そのしもべとしてのやるべきこと、それがまあ菩薩道なんだね。うん。
 神のしもべとしてわたしは純粋な道具にならなきゃいけないと。純粋な道具になるっていうことは、言い方を換えれば、できるだけ自分のステージを上げることだと。できるだけ自分を純粋化して、ブッダに早く近づいて、で、神がほんとに喜んでわたしを使ってくださるような存在に早くならなきゃいけないと。その気持ちで生きると。
 で、もう一回言うけども、今言ったようなこと、これはわたしが勧めることですけども、例えばこういうことを、人生の、人生っていうか存在の唯一の動機であり、柱であり、中心点にするんですね。ほかのことは全部補助であり、付け足しである、という気持ちで生きなきゃいけない。
 で、これは、さっきから何を言ってるのかっていうと、それを――いいですか?――絶対忘れないでください。絶対忘れないでくださいっていうのは、生まれ変わっても忘れないぐらいにしてください。生まれ変わっても忘れないぐらいに心に根付かせてください。今言った、菩提心、そしてわたしには神しかいないんだっていう気持ち、あるいは、この人生、神のしもべとしてすべて捧げるんだっていう気持ち。これのみが中心点。
 前から言ってるけどさ、われわれは忘れっぽい。忘れっぽいっていうのは――この中でも忘れっぽい人よくいるだろうけど、わたしももともと忘れっぽい人だったから――わたしの勉強会の話とか聞いててもわかるでしょ。どんどんずれていって、「なんの話だった?」って(笑)。あるいは例えばよく、ね、落語とかでもあるかもしれないけど、買い物に行って途中で誰かに出会って、いつの間にかなんのために出たのかよくわからなくなってるっていうか(笑)。そういうのってよくあると思うんだね。でもそうじゃなくて、決して忘れないように。わたしはなんのために生まれたのかと。なんのために存在してるんだと。ね。
 例えばさ、ちょっと、さっきの話とも絡めて言うとね、もし皆さんがこのようなダルマ、真理に巡り合い、ですよ――もし皆さんがまだ菩薩道とかバクティとの縁がなく、ただ単純に悟りたいと、ニルヴァーナに入りたいってもし思ったとしたらですよ、当然その道があるんだね。つまりそのその場合は、できるだけ他者とは交わらず、で、神っていうよりも自分の真我に集中し、まあ、いろんなやり方でニルヴァーナだけを目指すと。この場合、例えばY君がいるとしてね、Y君が例えばそういう師匠についてそういう教えを学んでそういう修行をしたら、死んだら――まあ成功すればね、死んだらそのままニルヴァーナに行くかもしれない。でもY君が菩薩道や神のしもべの道を選んだ場合は、ニルヴァーナに行けないわけですね。ニルヴァーナに行かずに、大いなる希望と勇気と意志を持って、「さあ、わたしはニルヴァーナなんていらない」と。「来世も、あるいは何生も何百生も何千生も、衆生のために菩薩の道を行きます!」――この思いでまた生まれ変わると。でも生まれ変わったあとに、もしY君がその次の生でね、その純粋な、中心となる気持ちがちょっと弱くて、例えば次に生まれ変わった世界で、その世界でのいろんな常識、いろんな欲望、いろんな世俗的なカルマに巻き込まれてしまったら、これ、なんの意味もないよね。今言ってる意味わかるでしょ? だって、「だったらニルヴァーナ入れよ」っていうことですよね(笑)。だったらニルヴァーナ入っとけば良かったじゃんと。ニルヴァーナを蹴ってまで、皆さんはこの世界に生まれてきた。わたしはね、実際そう思いますよ。何度も言うけども、皆さんは当然前生から修行の縁があるわけだから。皆さんが今ここにいるっていうことは、どっちかです。ニルヴァーナにも行けないほど愚かだったか(笑)、

(一同笑)

 もしくは、かっこよくニルヴァーナを蹴ってきたか。
 あのね、前者でもいいですよ。前者の場合も、例えば前から冗談みたいに言ってるけどさ、この中の九割ぐらいはニルヴァーナを蹴って菩薩道としてここに来たと。でも一人ぐらい、実はニルヴァーナに行こうと思ったんだけど(笑)、ニルヴァーナに行きたかったんだけど、ちょっと落ちちゃったと(笑)。

(一同笑)

 でも、それはそれでいいんです。それはかっこ付けていいです。ほんとはニルヴァーナ行きたかったんだけど落ちてこっち来たんだけど、みんなに混じって、「そうだ! ニルヴァーナなんて、おれたちには必要ない!」――これでいいです。そしたら本当になるから、それがね。
 「われわれにはニルヴァーナは必要ない」っていう気持ちで、勇気を持って来たはずなのに、それなのにそれを忘れ、どうしようもないこの世俗的なカルマに巻き込まれるとしたら、じゃあニルヴァーナに入れば良かったじゃんと。なんのためにまたこの世に来てるの?――みたいになってしまうんだね。だから、その中心点――われわれはなんのために存在するのか、なんのために生きてるのか、なんのためにこの道を歩んでるのかっていうことの――もう一回言うよ、例えば意志を強くするとか、あるいは心を浄化するとか、あるいは智慧を高めるとかは、全部補助です。サマーディさえも、解脱さえも悟りさえも、補助です。目的は、みんなのために早く修行を進めてブッダになる――菩提心ね。そして、早く、ほんとの意味で神の愛を悟るために神にすべてを明け渡す。あるいは、神のしもべとして、純粋な道具として使ってもらえるようになると。ただそこにのみグーッとすべてが集約されなきゃいけない。
 で、もう一回言いますよ、大事なことなんでね。それを、生まれ変わっても忘れないように心に根付かせてください。生まれ変わってもですよ。
 ――っていうことは――あのさ、生まれ変わっても忘れないって、どれくらいのことかっていうと、わかんないよね、普通はね。だから相対的に考えたらわかるかもしれない。例えば、寝て忘れるようじゃもう話にならないよね(笑)。寝て忘れるんだったらそれは生まれ変わっても忘れるよ、それはね(笑)。だから、寝ても覚めても忘れないと。何があっても、少なくとも生きてるうちは、ほんとにもう心に――あのさ、これはほんとにリアルに考えてください。リアルにっていうのは、なんとなくかっこいい思想として言ってるんじゃなくて、ほんとにまず考える。ほんとに考えるっていうのは、「ああ、ブッダの教えによると、あるいはヒンドゥーの教えによると、われわれは死んだら生まれ変わるんだな」と。この「生まれ変わる」っていう意味は、わたしのこの自我意識は継続したままで、このボディが外される。あるいは、サンスカーラっていうわけですが、われわれのカルマとか心の傾向みたいなのはずっと引きずられるから。引きずられるけども記憶はなくなります、普通は。記憶はなくなって、つまり普通の受験勉強的な覚え方では、それは全部飛んでいきます。でもわれわれが心に刻印したものっていうのは、当然来世も引き継がれるんだね。だから性格っていうのができるわけですね。それくらいに菩提心と神への愛を根付かせる。
 つまり、それはまずは知識でいい。最初はね。最初は、教えを何度も学ぶとかでいいんですけども、それだけじゃなくてもうわたしの心の中でそれが刻印として、ね、もう刻まれてるぐらいに、その菩提心の思いと、それから神のしもべなんだとか、あるいは神にすべてを明け渡すんだっていう思いを刻むんですね。
 つまり、何度も言うけども、皆さんは今生、一発、修行に成功すればいいっていう話ではないんです。何生も何生もこの中心的な思いを忘れずに、神のしもべとして、あるいは菩薩として歩んでいかなきゃいけないっていうのが、この菩薩道とかバクティの道のエッセンスだから。そのためにはその中心点となる思想を、もう記憶が吹っ飛ぼうが――まあちょっとかっこ良く言えば、例えばY君が頭をどっかでぶつけて、記憶喪失になりましたと。記憶喪失になってるのに、自然に加行をやりだすとかね(笑)。もう感動ですよね(笑)。

(一同笑)

 「ああ、Y君、こんな状態になってまで」と。うん。あるいは例えばもうちょっと感動的な感じで言うと、わたしが例えば頭打って記憶喪失になったとするよ。記憶喪失になったのに、例えば水曜の勉強会の時間になるとここに座るとかね(笑)。感動的ですよね(笑)。

(一同笑)

 でも、つまりそういうことです。つまり頭ではなくて、もうほんとに、まあ、体というか心っていうか魂っていうか――だから表面的なものじゃないわけですね。それがほんとのわたしの願いなんだっていうか、人生の意味なんだっていうことを、記憶を超えた領域で――だからね、ちょっとこういう世界ってほんとは――この中の何割かの人には朗報ですけども――中途半端に論理的な知能が高い人よりも、ちょっと無智な人の方が実はやりやすい場合がある。この中の何割かに朗報ってひどい話だけど(笑)。

(一同笑)

 つまりあまり物事を分析的に考え過ぎると、それが頭で邪魔になってしまう場合がある。そうじゃなくて、一つのものに、無智みたいに突っ込める人ね。「そうだ、菩薩道なんだ! そうだ、バクティなんだ!」――こっちの方が実はいい場合がある。
 もちろんね、いつも言うように、知性でそこにたどり着くやり方もある。これはだから、すごく知性がある場合ですね。知性っていうか智慧っていうかな。直感的な智慧っていうか。それによってバババババババババーッと、「あ、そうだ、こうでこうでこうだから菩薩しかないじゃん!」――これはこれでね、非常に強いです。わたしもよくそういう経験あったけど。さっきの気付きの経験もそうなわけだけど。もう論理じゃない論理なんだね。論理じゃない論理っていうのは、それを例えば紙に書いたりしたら、全く哲学としては全く何も役に立ちません。誰にでも通じる論理じゃないから。自分にしかわからない論理があるんだね。「え、こうでこうでこうでこうでこうだから、菩薩しかないじゃん!」とかね。こういうのがある。これができる人は、これはこれで素晴らしい。
 もしくは、ほんとに自分の中の前生から持ってきてる純粋なる思いだけに心を合わせて、わたしはもう無智だからよくわかんないけども、そうだと。菩提心しかないんだと。あるいは神への愛しかないんだと。バクティしかないんだと。で、そう思ったらもう、ほかのことは全部排除して。排除っていうのは、あくまでも補助的なものと見なして。いかに自分が前生から持ってきた宝物であるその気持ちをね、強めるか――強めるっていうよりは、確定させるかっていうか。そこに全人生を捧げるっていうかな。

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