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解説「ラーマクリシュナの生涯」第一回(2)

【本文】

1 シュリー・ラーマクリシュナの生地と家系

 シュリーラーマと主ブッダとを除けば、神の化身たちは皆、貧しさと貧困の中に生まれた。
 例えばバガヴァーン・シュリー・クリシュナの幼少時代を見よ。彼は牢獄で生まれ、その幼年時代を、親類縁者たちから離れて、貧しい牛飼いたちの集団の中で過ごした。
 また主イエス、彼もまた馬小屋に生まれて、飼養桶をゆりかごとした。しかし、身分の低いその両親に栄光をもたらした。
 またシャンカラは、その父親の死後、貧しい未亡人の子として生まれた。
 また、ごく普通の家柄に生まれたバガヴァーン・シュリー・チャイタニヤ。
 そして最後に、貧しい家に生まれたイスラームの創始者、預言者ムハンマドである。
 彼らは主として宗教の衰退を阻止するためにこの世に生まれてきたのだということは、すでにわたしたちは見てきた。この目的を果たすためには、彼らは過去に現われた宗教に伏在する原理を詳しく知り、それの衰退の原因を研究して、時と場所の変化に応じた宗教の新しい、完成された形を作らなければならなかった。この詳しい叡智が得られるのは粗末な小屋の中であって、豊かな宮殿の中ではない。自分の大切なよりどころとして神とその摂理にすがるのは、この世を楽しむ喜びを奪われた、貧しい人々であるからだ。したがって、宗教がいたるところで衰えていても、古い教えの少しばかりの輝きが、まだ貧しい人々の小屋の中は照らしているのだ。それがおそらく、これらの偉大な魂たち、世界の教師たちが貧しい人々の小屋に生まれてくる理由なのであろう。
 我々がその生涯の物語を述べようとしているこの偉大なる師の誕生の場合は、まさにそうであった。

 はい。「シュリーラーマと主ブッダ」――つまりラーマ様とお釈迦様は、まあご存知のようにこの二人は王様の子供、つまり王子様として生まれてますと。でもそれは例外として、それ以外の多くの化身とされる方々は、まあだいたいここに挙げられた例のように、貧しい、あるいは悲惨な環境の中に生まれる場合が多いんだと。
 で、それはなぜかっていうのは、まあもちろんこれはこれを書いたサーラダーナンダの一つの見解に過ぎないけどね――まずアヴァターラっていうのは、宗教の衰退を阻止するためにこの世に生まれてくると。ここでいう宗教っていうのは、もちろん狭い意味での宗教ではなくて、つまりサナートダルマっていわれる、永遠のダルマっていわれる普遍的な真理の流れですね。
 化身って言った場合、実際には二つあると思います。一つはほんとのアヴァターラ。ほんとのアヴァターラって、つまり至高者の化身ね。で、もう一つは、これはまあチベットとかでよくトゥルクとか化身とかいわれる、つまり至高者のアヴァターラではないかもしれないけども、大聖者、あるいは菩薩の化身ね。つまりこの場合、その聖者とか菩薩っていうのは、まあ至高者のアヴァターラじゃないけど、でも解脱をしてるから、別にこの世に生まれてくる必要がないと。うん。幸せな、ね、ニルヴァーナとか心の本性で安らぐことができるんだけども、衆生のために何度も何度もこの世にやってくると。うん。だからそのスケールの意味において、まあいろんな化身がいるわけだけど、でもどっちにしろこの化身の一つの役割っていうのは、まあ言ってみれば、サナートダルマ――つまり永遠なる真理のダルマの、修正みたいなもんですね。
 修正っていうのはつまり、例えばここに偉大なる聖者、あるいはアヴァターラがボーンって登場して、一つの大いなる教えを説き、大いなる、聖なる修行とか教えの流れをつくったとして。でもその御方が例えば亡くなってしばらくすると、当然それらは、まあ衰退したり、あるいは衰退しなくても形骸化したり、あるいはほんとに、なんていうかな、世俗的な、形だけの、中身のないものになったりとかしていくわけだね。まあ例えばキリスト教なんかそうですよね。つまり非常に商業主義的なものに逆に利用されているわけだけど。あるいはもちろん仏教とかもそうですよね。
 ただ、まあ仏教の一つのいい例として言うならば、仏教っていうのは、例えばお釈迦様が現われて素晴らしい教えを説き、で、その後どんどん形骸化してくと。で、そこで例えば、ナーガールジュナとか、シャーンティデーヴァもそうですけど、ああいう方々が現われて、まあ言ってみれば、大乗仏教的な流れを作ったわけだね。で、その後また密教の時代になると、また多くの聖者方が現われて、ちょっと衰退しかけたものをちょっと立て直すっていうかな。うん。だからそういう感じで聖者が現われ――つまりさ、変な話ですよ、聖者は素晴らしい。うん。で、もちろん、なんていうかな、縁のある者たちはそれによって学んでいくわけだけど、でも、その聖者が亡くなってしまうと、光のエネルギー、あるいは素晴らしい上昇の力が弱まっちゃうから――みんな無智ですから、無智だから無智な方向に行っちゃうんだね。うん。で、それが時代が下がるにつれて、どんどんおかしな感じになっちゃう。よって、それをまた修正するために、まあ至高者のアヴァターラか、あるいは菩薩の化身かは別にして、そういった化身方が現われて、正しい方向に修正してくわけですね。
 はい。で、まあそれはそうなんだけど、ここでまあサーラダーナンダが、まあ仮説として言ってるのは、そのような存在の多くが貧しいところに生まれるのは、そのような中でこそ人々は神にすがるんだと。で、それによって、なんていうかな、真理を求める気持ちがものすごく出てくるんだと。でもこれはちょっと、まあサーラダーナンダの考えだけども、わたしはちょっとそれはちょっと違うかなって感じがします。違うかなっていうのは――アヴァターラだから、それいらないですよね(笑)。でもここで言ってるのは、アヴァターラにはいらないけども、そうでない魂にはこれは言えるかもしれない。
 何を言いたいかっていうと――例えばですけどね、まあ、ここにいるみんなもそうだけど、ここにいるみんなはだいたい、いつも言うけども、こうして修行に巡り合い、特にバクティとか菩薩道とかに巡り合えるっていうのは、過去世で必ず修行しています。絶対に。で、当然、修行してるっていうことは、まあもちろん、人によってはある程度の悟りを得ていたかもしれない。あるいは悟りは得ていないけども、多くの功徳を積んでいたかもしれない。あるいは多くの、帰依や救済の実践をしていたかもしれない。だから当然ある程度の徳を持って、皆さん生まれてきています。で、そうだな、ものすごく徳がある場合――修行者じゃない場合ね――修行者じゃない場合をまず考えると、修行者じゃないパターンの場合は、すごく徳があって生まれてきたら、だいたい、いいとこに生まれます(笑)。つまりお坊ちゃん、お嬢ちゃんとして生まれます。そして、まあある程度、最初においてはですよ、最初においては、人間関係的にも、あるいはその他もいろんな意味で恵まれたかたちで生まれ育ちます。徳の力によってね。でも修行者の場合は、そうとも限らないんですね。うん。
 まあ、そのパターンもあるよ。修行者で徳があっていいとこに生まれましたっていうパターンもある。つまりそれは、ラーマとか仏陀のように。――まあ彼らはアヴァターラですけどね。そういう例外がありますというのと同じように、アヴァターラじゃない普通の修行者の場合も、徳があってすごいセレブの子供に生まれたとかね(笑)。そういうパターンもあると。うん。そういうパターンもあるけども、そうでないパターンも多いと。うん。つまり修行者はそこを目指してないから。そして今ここに書かれていたように――つまり繰り返すけどね、アヴァターラ、つまり完全に神そのものだったらもちろんそういうのはいらないんだけど、そこまでいってない修行者の場合は、目覚めなきゃいけないから。うん。今生すべての記憶を一応忘れて生まれてきて、で、修行に目覚めなきゃいけないから。その場合はやはり苦難があった方がいいんですね。苦難がないとわれわれはそこから出たいとは思わない。あるいは神を求めないと。
 だからこれは、ここに書かれてることは、一般の修行者に当てはまる話だね。うん。一般の修行者の場合、つまり徳があったとしても、その徳が封印されて、いろんな苦難を味わわされると。で、そこで求道心が出て、まあ神に向かったり、真理に向かったりしますよと。
 でも繰り返すけど、アヴァターラの場合はちょっとそれは超越してるから、それはまあ関係ないんじゃないかなって思いますね。
 はい。まあ、でもこの話を導入として――つまりラーマクリシュナ自身も貧しい家庭に生まれたから、導入としてこの話が出てるわけですね。

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