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解説「ラーマクリシュナの福音」第一回(2)

【本文】

 Mは驚嘆してあたりを見回し、心に思った。
「何という美しいところだろう!なんという魅力のある人だろう!何という素晴らしいことを言われるのだろう!もうここから動きたくない。」
 数分後に彼は考えた。「まずはこの場所を見てこよう。それからまたここに戻ってきて座ろう。」
 シドゥとともに部屋を出ると、ドラ、鍵、太鼓およびシンバルからなる美しい夕拝の準備をしつつあるかのようだった。Mとシドゥは十二のシヴァ聖堂、ラーダーカーンタ聖堂およびバヴァターリニーの聖堂に詣った。諸々の神像の前でおこなわれる礼拝を見ていると、Mの心は喜びに満たされた。
 部屋に入ると、シュリー・ラーマクリシュナは一人、木の寝椅子に座っておられた。香が焚かれたばかりで、扉は閉まってた。入るとMは手を合わせて師に挨拶をした。それから師の命によって彼とシドゥは床に座った。シュリー・ラーマクリシュナは彼らにお尋ねになった。「どこに住んでいるのかね」「仕事は?」「バラナゴルには何の用できたの?」
 Mはそれらの問いに答えたが、ときどき師が忘我の状態にお入りになるらしいことに気づいた。後に、この気分がバーヴァ、法悦状態と呼ばれるものであることを知った。後にMは、シュリー・ラーマクリシュナが日暮れになるとしばしばこの状態に入られ、ときには外界の意識を全く失われることを知った。
 少しばかり話しをした後で、Mは師に挨拶していとまを告げた。「またおいで」と師はおっしゃった。家に帰る途中、Mは考えた。
「この静かで朗らかな人物は、いったいどういう人なのだろう? すぐにでもまた、そばに戻っていきたいようだ。――書物を勉強しなくとも人間は偉くなれるものだろうか? 驚いたなあ。また来なくちゃ。そうだとも。あの人も、『またおいで』っておっしゃったのだから――。明日か明後日の朝、また来よう。」

 Mの二度目のシュリ・ラーマクリシュナ訪問は朝八時、東南のベランダだった。

シュリー・ラーマクリシュナ 「おまえ、結婚してるのか?」

M「はい、しております。」

シュリー・ラーマクリシュナ(身震いをして)「おお、ラームラル……彼は結婚しているのだって!」

 恐ろしい罪を犯した者のように、Mは地面を見つめてじっと座っていた。彼は「結婚するのがそんなに悪いことなのだろうか」と思った。
師はお続けになった。「子供たちはいるのか?」
 Mは今度は自分の心臓の鼓動を聞くことができた。彼は震え声で「はい、子供たちもおります」とささやいた。非常に悲しそうに、シュリー・ラーマクリシュナはおっしゃった。「おお、子供たちまでいるとは……」
 このように非難されて、Mは言葉もなく座っていた。彼のプライドは一撃を受けたのだ。二、三分後にシュリー・ラーマクリシュナはやさしく彼を眺め、愛情を込めておっしゃった。
「ね、おまえはある良い印を持っているんだよ。わたしはそれを、人の額やまなざしなどを見て知るのだ。今度は、おまえの奥さんはどんな人なのか話しておくれ。彼女は霊的な性質を持っているのか、それとも無明の支配下にあるのか。」

 はい、これは有名なシーンですが、Mが最初にラーマクリシュナと会話する機会を得たときに、まあラーマクリシュナからね、まず「結婚しているのか?」と聞かれて、「しております」と答えたら、まるでそれが恐ろしい罪かであるように、「おお、結婚しているのだって!」――このラームラルっていうのはラーマクリシュナの甥ですが、彼に対して「彼は結婚しているのだって!」と、身震いをして言ったと。で、次に「子供たちはいるのか?」って聞かれて「子供たちもおります」と答えると、「子供たちまでいるとは……」と、ね、非常に悲しそうに言われたと。
 このシーンの意味っていうのは、二つあると思います。一つは、ラーマクリシュナの弟子っていうのは、まあだいたい大きく分けて二つに分かれるんですね。一つは十代の若者たち。で、もう一つはまあ、かなり地位のある人も含めて――例えばギリシュっていう有名な信者、この人もまあ当時のインドの有名な劇作家であったりとか、こういう、ある程度、なんていうかな、世間で立派に働いている大人たち。それから十代の若者ね。
 で、ラーマクリシュナの、この二つのタイプの信者に対する教えっていうのは、全く違っていた。つまり、もう既に家庭を持ち、そして地位も名誉もある人々に対しては、その人たち向けのね、いろんな、つまり社会でどのようにして神を見出していくかっていう教えを説いてたわけですね。で、逆に十代の若者たちに対しては、一切世間と関わるなと。ね。もう一切、この世のけがれたものや現世的なものに、指を触れてもいけないと。仕事さえするなって言ってたんだね。
 これも何回か言ってるけど有名な話で、ラーマクリシュナのある若い弟子がね、ある仕事を始めたっていう噂が立ったと。まあ実際仕事をしてたんだけど。で、そこでラーマクリシュナは非常にもう、なんていうかな、苦しんだんだね。「あの子が世間でそのような仕事をしてるとは!」と。で、そのあとに実はそれが、彼のお母さんがね、具合が悪くて、そのために働いていたっていうのを知ったと。で、それを聞いたラーマクリシュナは、逆に大変喜んでね、「あ、それなら問題はない」と。ね。つまり、体を壊したお母さんのためにそのように働くのは全く問題がないと。しかしおまえが単なる世間の金や名声のために、世間でね、仕事を始めたという報告を聞くくらいならば、おまえがガンジス川に身を投げて死んだと聞いた方がまだましだと。ね(笑)。そういうふうに言っているんだね、ラーマクリシュナは。つまりそれだけ若い十代の弟子には、少しも世間にけがれないように指導してたんですね。
 で、このMという人はじゃあなんなのかっていうと、このMはある意味その中間だったんです。つまりまあ二十代後半ぐらい。だから非常に微妙な年齢だったんだね。で、多分このときのラーマクリシュナのその態度からみると、おそらく、なんていうかな、若い方の、つまり神聖な、世間に染まらない修行者の方の期待もあったんでしょう。で、このあとに書いてある、顔を見てね、良い印を持っているっていう部分からも分かるように、そういう期待もあったのかもしれない。そこでそういう問い掛けをしたわけですね。そしたら既に結婚していると、既に子供もいると。で、そういうのを聞いて悲しんだというのが一つだね。

 で、もう一つは、そうじゃなくて、このあとの展開からも分かるように、この会話によって徹底的にラーマクリシュナはこのMのプライドを打ち砕いているんですね。そのような意図的なものもあったかもしれません。
 つまりMっていうのは、ある意味当時のインドのエリートです。当時インドっていうのは、イギリスのまだ支配下にあって、で、イギリス風のさまざまな学問や芸術やその他文化が流れ込んできて、で、それがいいんだ、みたいな感じになってたんだね。つまりインド人が、まあ戦後すぐの日本みたいな感じで、ちょっと自分たちの文化に自信を失って、で、西洋のものがやっぱり優れてて素晴らしいみたいな感じになってた時代があったんだね。で、その時代にこのMもそのイギリス風の教育を受け、西洋風のさまざまな学問を身に着けて、ある意味ちょっと、実体のない、本質的ではないプライドみたいなのを持ってたわけですね。それをこの最初の会話でラーマクリシュナがことごとく打ち砕いていった。
 で、最初の衝撃がね、この結婚と、それから子供。もともともちろん社会において、結婚していることや、あるいは子供がいることっていうのは、全く恥じることではないし、逆にそうじゃない方が恥じることだと。つまり、いい年して結婚もしない、あるいは子供もいないっていうのは逆に大変恥じることであると。それはまあヒンドゥー教の観念においても、あるいは西洋の観念においてもそうなわけだけども。でも、なんていうかな、間違った自尊心みたいなものをまず一発目に打ち砕かれたわけだね。つまり修行の世界、神を求める世界においては、その現世的な観念は間違っているよと。
 ちなみにですけども、今言ったイギリスの支配下にあったインドなんだけども、このインドがこれからしばらくのちに、独立するわけだね、イギリスから。このインドがイギリスから独立する力となったのも、実はこのラーマクリシュナの、なんていうかな、流れが大きいと言えるかもしれない。どういうことかというと、直接的にはラーマクリシュナじゃないんだけど、ラーマクリシュナの弟子のヴィヴェーカーナンダね。ラーマクリシュナの一番弟子のヴィヴェーカーナンダは、皆さんも知っているように、ラーマクリシュナが死んだあと、しばらくね、インド中を放浪したあと、アメリカに渡って、世界宗教会議っていう会議に出たわけですね。で、――これ『聖者の生涯』の第二巻に書いてあるんで、興味のある人は詳しく読んでもらったらいいと思いますが、まさに神に導かれるように――っていうのは、ヴィヴェーカーナンダは非常に西洋の社会に対して無知だったんで、何の申し込みもせずに、神が導いてくれるだろうという思いだけで――本当は厳重なね、いろんな申し込みとか推薦が必要だったんですが、神が導いてくれるだろうと思ってフラッとアメリカに行って、で、まあ最初はその申し込みを断られて、でもまあ、偶然というか必然というかな、いろんな出会いによって、世界宗教会議にね、インド代表として出られることになったと。で、そこで行なったヴィヴェーカーナンダのスピーチが非常に素晴らしくて、もうヴィヴェーカーナンダの独壇場になってしまったわけだね。つまり、フラっとやってきた、全く申し込みもしていなかったはずの貧乏なインドの乞食僧みたいなヴィヴェーカーナンダが、世界宗教会議の一番のリーダーシップを取るような存在になってしまった。
 で、それはもう本当にアメリカでも大々的に称賛され、まあその後もヴィヴェーカーナンダはアメリカ中を渡りながら公演をして、非常に大絶賛されたわけだけど、そのニュースがインドにも伝わってきたわけですね。で、例えばそのときのアメリカの新聞の一つの記述としては、「このような素晴らしい思想を述べる者がいる民族に宣教師を送るその愚かさをわれわれは恥じなきゃいけない」みたいなことまで書いているんだね。つまりアメリカっていうのは、まあアメリカだけじゃないけど、キリスト教っていうのはある意味独善的なところがあって、いろんな、まあ彼らか見て未開の地にどんどん宣教師を送って、キリスト教を宣布させていったわけだけども。そのアメリカが、「インドに宣教師を送ることの愚かさ」みたいな新聞記事とかを出してるんだね。つまりそれだけヴィヴェーカーナンダの講演がショッキングだったんだと思いますね。
 それだけの大成功をおさめて、それがインドにもどんどん伝わってきて、で、それでインドの当時の、さっき言った、自分たちの文化にちょっと自信を失っていた人たちが、逆に自信を取り戻したんだね。で、そのころその勇気付けられたそのインドの若者たちは、こぞって『ヴィヴェーカーナンダ講和集』や『ラーマクリシュナの福音』を読んでたっていうんだね。それで勇気付けられて、いわゆる独立運動を盛り上げてった。
 ただまあラーマクリシュナミッションやマト自体は一切政治に関わらないという方針があったから全く関わってないんだけど、でも独立運動をね、頑張っていた人たちがみんな『ラーマクリシュナの福音』とか、ヴィヴェーカーナンダの講和集持ってるから、いつもラーマクリシュナ教団はそういう懐疑をかけられてね、実際に多くのラーマクリシュナの弟子たちが――そのときはラーマクリシュナ自身はもう亡くなっていたけどね――ラーマクリシュナの教団の修行者たちが、無実の罪でたくさん捕まったそうです。これ、サーラダーデーヴィーとかの伝記にも出てくるけども、まあ、多くの修行者たちがね、いろんな罪を被せられて捕まって、で、サーラダーデーヴィーがそれを嘆いているシーンとかも出てくるんだね。
 だからラーマクリシュナとかヴィヴェーカーナンダ自体は別に政治には関わんなかったんだけど、彼らの、なんていうかな、教え、ね、そしてその布教の成功が、インドの若者にすごい自信をもたらして、で、それによって、インド独立が後押しされたといわれています。
 はい、まあちょっと話がずれましたけども――だからこのとき、まだラーマクリシュナが在世当時っていうのは、まだそのような流れは起きてないけども、ラーマクリシュナが、一番最初のね、種を蒔いたわけだね。 
 で、話を戻すと、Mはまだ西洋かぶれ、イギリスかぶれのところがあって、で、その間違ったプライドみたいなものを、次々とこの会話で、一つ一つ、ラーマクリシュナから打ち砕かれていく場面ですね。

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