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「解説『スートラ・サムッチャ』」第14回(7)

◎世界に風穴を開ける

 はい。で、最後の方は、ちょっとこれはまとめなので、分かりやすいのが出てきてますね。ここで月の例えが出てきますが、月――まあ実際にはこれ、太陽での例えの方が分かりやすいかもしれないね。太陽というのは、よく言われるように、何の意志もなく、あるいは何の計画もなく、われわれに恩恵を与えてくれるわけですね。例えばわれわれは太陽によって、まあもちろん暖かく感じるし、あるいはそれによって植物が育って、われわれはそれを食べることもできるし。あるいはそうですね、太陽光線に含まれてるさまざまな恩恵をわれわれは受けることができる。で、それを太陽自身は何も考えていない。それが言ってみれば、太陽のダルマなわけだね。太陽の自然のダルマによって、何も考えずにそれをやってると。で、如来の境地っていうのはそうなんだっていうことですね。如来っていうのは、別に――もう一回言うけども、「さあ、次はインドを救うためにお釈迦様として生まれるか」みたいに考えてない(笑)。 そんなこと考えてないわけですね。われわれが――太陽もそうだけど、あるいは他の自然現象もそうですけども――われわれが恩恵を受けて、概念としてそれをとらえてるだけであって。で、如来もそうなんだってことですね。われわれが、概念的にその恩恵自体をカテゴリーに当てはめて、「あ、なるほど、わたしはこのような恩恵をここから受けた」って考えてるだけってことですね。
 それからもう一つ別の例えでいうと、例えば太陽でも月でもいいけども、この場合は実体がありますよね。空に実際、その天体がある。で、それを例えば、昔の例えで言ったらね、池に月が映ったりとか、あるいは洗面器みたいなのに月が映ったりとか、あるいは鏡に映ったりとかいろいろするわけですね。この映ったものっていうのは、例えば湖の水面が波立っていたら、当然映った月もちょっとゆらゆらして見える。あるいは水が濁っていたら、月も濁って見える。あるいは水に色がついていたら、月もその色に見える。つまりこれが、こっち側の条件に応じて、その現われが変わってるってことなんだね。
 で、これが如来の真実。つまり如来の実体っていうのは、われわれの理解を完全に超えている。でもわれわれはなんらかのかたちで理解しなきゃいけないので、理解の器みたいなのがあるんですね。その理解の器がわれわれは――まあ、だから逆に言うとね、われわれの心の器が完全にクリアだったならば、リアルに如来が見えます。でもクリアな人なんていないので。この輪廻にいる以上はね。その濁り具合に応じて如来を認識するんだね。で、それがさっき言った、ただの人間と見るとかね。あるいは、ちょっと極端に言うとですよ、極端に言うと、認識すらできないかもしれない。
 ちょっとこの話っていうのはさ、唯識的な話にもなるわけですけども。前から何回か言ってるけどね、例えばわれわれは、言葉っていうものを持ってしまったがために、特に共通の言葉というものを持ってしまったがために、まあカルマっていうものが非常にこう、なんていうかな、混ざっちゃってるっていうか、近くなっちゃってるんだね。カルマっていうか認識自体がね。何を言いたいかっていうと、もしですよ、例えばここにいる十人ぐらいの人が、それぞれ一人ずつ、どこか、そうですね、部屋の中で一人で育ってね、テレビとかも見ないで一人で育ちましたと。誰とも会わないで。まあ二十年、三十年経って、バッてここでみんな一緒になったとしたら、ここにいる十人全員、この世界の見え方が違ってるはずです。全然違って見えます。で、お互いの見え方も違います。でもそうじゃなくて、われわれは小さいころから言葉っていうのを媒体にして、共通認識をずーっと育ててきたんだね。だからこの世界が非常に同じく見える。だからその同じく見えてるものが、なんか実体のように見えてくる。だってわたしもこう見えてるし、あの人もこう見えてるから、だからこれは真実ですよねって見える。
 科学もそうなんですよ。自然科学っていうのはいろんな実験によって仮説を証明していくわけですけども。でも、これも言ってみればさ、その実験をした人のカルマかもしれないよ(笑)。 でもそれが認められてしまったおかげで、われわれもそれを認識したおかげで、それがまるでもう動かせないガチガチの現実になっちゃうんだね。ある実験をある地球人がして、それがある結果をもたらした段階で、もうそれ以上のことは起きなくなります。これが、なんていうかな、つまり現象、現実にリアルがあって、それをわれわれが見てるんじゃなくて、こっち側、心の方が中心であって、その表われとしてこの世界が見えてるに過ぎないっていう話だね。
 だから、さっきの夢の話というのは非常にいい例えなんですけど。夢の話も同じように、実際には心が表わしてる幻影だから、なんでもありなんだけど。言ってみれば。でもそこで一つの法則性が定まった段階で、それ以上のことは起きなくなります、夢の世界ではね。同じように、われわれも小さいころからいろんな常識を教えられ、あるいはいろんな共通概念を教えられ、で、それが本当にもう、なんていうかな、壊せないほどガチガチになってしまったがために、この世界っていうのは非常に安定してるわけだね、言ってみればね。
 はい。しかしそうじゃなくて、その世界に風穴を開けなきゃいけない。風穴を開けないと、われわれはこの世界から解脱できない。で、その風穴を開けにやって来たのが、如来であり、あるいは神の化身アヴァターラなわけですね。だから、われわれはそれに対して、もう一回言うけども――あの、ほかのことはどうでもいい。ほかのことはどうでもいいけども、如来とか神とか仏陀に関しては、ちょっと柔軟にしといてください。われわれのガチガチの観念をちょっと緩めといてください。
 だからさっきも言った話みたいに、例えばですよ、T君が例えばね、「ぼく、お母さんの脇腹から生まれたらしいよ」って言ってきたら、そんなのは馬鹿にしてかまいません(笑)。 「そんなのあるわけないだろ!」と。「おかしいんじゃない?」と。「脇腹から生まれるわけないじゃない! それはお母さんにウソ教えられたんだよ、わはは」――これでかまわない。でも、仏陀が脇腹から生まれたって聞いたら、「それは、あるかもな」と。「ああ、なるほど」と。「ああ、仏陀、脇腹から生まれたんだ!」と。つまり、脇腹から生まれたからすごいって言ってるんじゃないよ。つまり仏陀に関してはなんでもありっていうか、柔軟にしておかなきゃいけないんだね。そうじゃないと、それが風穴にならないんです。仏陀さえも、われわれのこの今の馬鹿な頭でとらえちゃったら、なんなんだってなるでしょう(笑)? それは、われわれをステップアップさせる、何の出口にもならないから。
 われわれがステップアップする出口っていうのは、もう一回言うけども、われわれの概念を超えてなきゃいけないので、で、ここに関しては全く、なんでもありにしとく。お釈迦様だけじゃないですよ。皆さんが例えば好きな聖者に関してもみんなそうですよ。それに関しては、なんていうかな、なんでもありって言うよりは、そうですね、「完全にわれわれの概念を超えた存在なんだ」という信を持ってたらいいね。だからそのような信がないと、何度も言ってるけども、いくら皆さんが教えを学んでも、あるいは一所懸命修行しても、この限定されたわれわれのカルマの中での遊びになっちゃうんだね。だからその辺の柔軟性、あるいは柔軟な信っていうのを持ってたらいいね。

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