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解説「ダンマパダ」第一回(3)

◎死のことわり

【本文】

 われらは、ここにあって死ぬはずのものであると覚悟しよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

 はい。ここは、しっかり死というものを認識しないといけないということですね。
 これはミラレーパの詩でもありますが、
「ちょっと出会ったに過ぎない親戚や友人達と、争い合うとはお笑いである」
っていうことをミラレーパは言っている。
 つまり本当にカルマとか縁の微妙なタイミングによって、我々は今、出会っているんです。で、それはしかも、いつ終わるかも分からない。自分が死ぬかもしれないし、相手が死ぬかもしれない。
 だからまあ、日本の「一期一会」という言葉はとっても素晴らしいわけだけど、この出会いっていうのは本当に一瞬かもしれないんですよ。で、これで終わりかもしれないんです。すごい貴重なものなんだ。だからそれは本当に、自分と他人の、進化とか幸福のためにこそ使われるべきなんだ。
 でも我々は、過去とか未来に対して、無駄な妄想をするんだね。さっきも言ったように、「ああ、こいつに俺は、こんなことをされた」とかね。あと未来のことも妄想するわけでしょ。「ああ、また明日も会って、明後日も会うから、もうこいつにはこういうふうな態度を取っておこうかな」とか、こんなくだらない発想しかしないんだね(笑)。
 そうじゃなくて、まさに今、出会って、もう出会えないかもしれない。自分も死ぬかもしれないし、相手も死ぬかもしれない。こういう、なんていうかな、シビアなっていうか、まあ、ここでは「覚悟」ってあるけども、まさに覚悟だと思うね。私は覚悟という言葉がとても好きなんだけども、覚悟なんですよ、本当に。もう、私は1秒後に死ぬかもしれないんだぞと。そういう世界に我々は生きているんだぞと。これを曖昧にじゃなくて、覚悟を持って考えるわけだ。そうしたら真剣にならざるを得ない。相手とこう、いがみ合っている暇などない(笑)、というのが、ここのところだね。

(T)あ、ちょっといいですか。ちょっと今、うちの婆ちゃんのこと思い出して。

 うん。

(T)今、婆ちゃん、胃癌で危険な状態なんですけど、その婆ちゃんを見てたら、もう死ぬんだなって分かってるから、なんか慈愛みたいのが沸いたっていうか。なんか死にそうな人を見たら、責める気になれないっていうか。

 うん。

(T)だから、この「争いがしずまる」っていう部分を見て、そういう、なんていうか、無常を知って慈愛が出てくるみたいな、そういうニュアンスなのかなって思ったんですけど。

 まあ、それもあるかもしれないね、発展的なものとして。
 まあ、だから仏教っていうのは、まず基本的な、自己のエゴを滅するっていう教えがあって、それから大乗的な、人の幸福のために活動するっていう教えがあって、その上に密教的な、いろいろな法則や考え方を利用して最もスピーディーな方法を取るという、この三段階の教えがあると。例えばこういった経典一つをポッと見たときも、当然その三つの角度から捉えることができる。
 これは原始仏教の教えだから、これだけただ見たら確かに、単純に、無常だからすべては意味がないんだよ、で終わってもいいし、あるいはT君が言ったように、大乗的に、だからこそ相手への慈愛が出るんだって考えてもいいし、それはいろんな角度から考えたらいいと思う。
 もともと、大乗経典っていうか、大乗仏教っていうのはそういうものだと思うんですよ。お釈迦様の教えっていうのはすごくシンプルで、細かく説明されているわけじゃない。ただズバッとエッセンスが説かれていて、それは単純に自分の解脱のための教えと考えることもできるけど、見方次第では確かに人の幸福のためっていう見方もできるんだね。その部分を発展させてまとめていったものが大乗の教えだね。

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