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解説「ダンマパダ」第一回(4)

◎悪魔にうちひしがれないために

【本文】

 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。――弱い樹木が風に倒されるように。
 この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。――岩山が風にゆるがないように。

 はい。まあ、この第一章っていうのは……例えば次の第二章は「はげみ」といって精進に対して説いていて、第三章は「心」といって心についての話なんですが、第一章は「ひと組みずつ」といって、ひと組みずつの詩をいろいろ淡々と載っけているもので、必ずしも全体が一つのテーマを持っているってわけでもないんですが――今の二つの詩っていうのは、まあ、これも読んで字のごとくなんですが、この世のものを浄らかだと思うか、不浄だと思うか。もちろんこれは原始仏典的な正解からいうと、不浄であると。つまり人間の体は不浄であるし、我々の経験する感覚的喜びも不浄であるし、すべてを不浄だとまず見なさいっていう教えがある。でもそうじゃなくて、曖昧にものを見ていると、すべてが浄らかに見える。
 ただね、もちろんこれは、大乗仏教になると、不浄ではなくて、空だと見るんだね。汚いとかきれいとかを超えて、すべては実体がないんだって見方をする。で、密教の世界に入ると、いや、すべては浄らかだっていうんだね。ここら辺が仏教の奥深いところで、仏教の同じ教えの中で、段階によって、言うことが変わってくるんです。
 全く修行してない人は、不浄なものをきれいだと思っている。はい、第一段階で、まず修行に入った人は、いや、私はすべてをきれいだと思っていたが、汚かった。この世は不浄であると。よってこの世から脱却しなくてはならないと。
 しかし第二段階、大乗の教えに入ると、いや、不浄とか浄とか関係なかったと。すべては何も実体がなかったんだ。実体と呼べるものは何一つ存在しないんだと。
 で、密教に入ると、さらにその本質が分かって、いや、すべては完全で浄らかであったと(笑)。これは、真理の深まりの違いなんだけどね。でも、どの点を取っても真実なんだ。
 ただまあ、これは原始仏典なので、まずはこの世を、スタートとしては、けがれたもの、不浄としてこの世を見なければならない。で、不浄と見ることによって、この世のけがれたものに対する、なんていうかな、感覚の結びつきね、これが、デメリットしかないって分かってくる。よって修行者は、感官を抑制し、食事の節度を知ると。つまり、感覚、この世の様々な現世的喜びに自分の心がとらわれないように普段からチェックしてね――まあ念正智だね。チェックして、食事も節度を知り、信念を持ち、修行に勤め励むと。
 それをやらない者は悪魔に打ちひしがれるんだと。打ちひしがれるっていうのは、悪魔にやられてしまうと。ここでいう悪魔っていうのは、悪魔っていろいろな意味があるけれども、実際に人格を持った、我々の修行の邪魔をする霊的な存在ともいえるし、あるいはそうじゃなくて、我々の心の煩悩だともいえるし、あるいは実際に実体を持ったエネルギーみたいなものだともいえるけども、そういった魔的なものが我々を襲ってきたときに、普段からこの世に執着し、様々な喜びを追い求め、あまり修行せず怠ける者っていうのは、魔的な誘惑が来たときに、まるで弱い木々が、ちょっと風が吹いたらポキッていってしまうように、修行者としてもポキッといってしまうと。
 しかしそうじゃなくて、この世の不浄性を普段から考え、いろいろな現世的なものにできるだけ執着せずに、食事の節度を知り、信を持ち、しっかりと精進している者っていうのは、どんな魔の誘惑、攻撃が来ても、ちょうど風が吹いても岩山が崩れることがないように、全く問題ないよ、というところですね。

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