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要約・ラーマクリシュナの生涯(30)「若き日のナレンドラと初めてのドッキネッショル訪問」③

◎若き日の純粋で多才なナレンドラ

 初めてラーマクリシュナに会ったころのナレンドラは、学問や音楽に秀でていただけではなく、強烈な内なる衝動に駆られて、厳格な禁欲と苦行を実践していた。菜食主義者で、夜はベッドを使わず、床の上か毛布の上で眠った。家族や親戚から離れて独り暮らしをし、修行に励んでいた。しかしそれを知らない家族は、にぎやかな家族の中では勉強ができないから独り暮らしをしているのだと思っていた。
 ある時期からナレンドラはブラーフモー・サマージに通うようになり、一日の長時間を瞑想にあてていた。ブラーフモー・サマージの教義で説く無形のブラフマンを信じていた。しかしナレンドラは他の信者と違い、単にブラフマンを推論するだけでは満足できなかった。彼はいつもこう考えていた。

「神が本当に存在するのなら、真剣に祈る人の心に、ご自分の性質を隠しておかれはしないだろう。必ずや、神に至る道を用意してくださったに違いない。神の悟り以外の目的で生きる人生は無意味だ。」

 このころのことを後にヴィヴェーカーナンダ自身がこう述懐している。

「青年期に入ったころの私は、毎晩床に着くと、二つの理想の人生が目の前に現れたものだった。
 一つは、召使いや従者に囲まれて、高い地位と莫大な力を誇る富豪だった。自分を世界の偉人の中でもぬきんでた存在と見て、その野望を遂げるのに必要な能力があると確信した。
 しかし次の瞬間には、世の一切を捨てた自分を思い描いていた。腰布だけをまとって、思い煩うことなく、与えられたものを食べ、樹下に眠り、神のおぼしめしに完全にゆだねて暮らす姿だった。
 選べるものならば、リシや苦行者の生活を送るのが自分にはふさわしいとわかっていた。人生で起こりうる二つの方向のイメージは姿を現し続けたが、いつも結局は後者を選ぶことになるのだった。本当の幸せに至るにはこれしか道がないとわかっていたので、ほかならぬこの道を進もうと心に決めたのだ。こうした生活の幸せを思うと、心は神に没入して、私は眠りに落ちるのだった。驚くことに、こうした現象は毎夜長時間にわたって続いたのだった。」

 子供時代から、ナレンドラの純粋さと多芸多才ぶりはさまざまな分野で発揮されていた。6歳のころには、「ラーマーヤナ」の詩を完全に暗記した。あるとき、ナレンドラの家の近くである歌い手がラーマーヤナを歌っていたとき、詩の一部を忘れてしまった。即座にナレンドラはそれを教えてあげ、感謝した歌い手からご褒美にお菓子をもらった。
 ナレンドラは「ラーマーヤナ」が歌われる場所にいるときには、「ラーマの栄光が歌われる場所には必ずハヌマーンがいる」という言い伝え通りに、実際にハヌマーンが来ていないか何度もあたりを見渡した。
 ナレンドラの記憶力は、シュルティダラ(一度聞いたことはすべて正確に記憶してしまう人)のように驚異的なものだった。そのためナレンドラの勉強方法は一風変わっていた。後にヴィヴェーカーナンダはこう回想している。  

「家庭教師が来ると、私は英語とベンガル語の教科書を持っていって、その日学ぶべき箇所を示すと、静かに座るか、あるいは横たわった。先生はまるで自分が習っているかのように、そこに出てくるスペルや発音、言葉の意味などを繰り返すと、帰っていった。私にはその授業で十分だったのだ。」

 またナレンドラは速読の能力も身に着けていたが、それはもはや普通の「速読」とはいえないような特殊能力だった。彼はたとえば本の中のある論題について、それが5ページ以上にわたって展開される論題であっても、その最初の数行を読むだけで、その論旨がすべて理解できた。

 また子供のころからナレンドラは、知識の習得と同様に、あらゆるタイプのスポーツに興味があった。子供のころ、父がポニーを買ってくれて、成長するにつれて乗馬の達人になった。さらに、体操、レスリング、棍棒術、棒術、フェンシング、水泳などのスポーツに熟達していた。

 ナレンドラは、強靭な肉体と鋭い知性、超人的な記憶力を持っていただけではなく、清らかな心を持っており、いつも喜びに満ちていた。あらゆる面で屈託がなかった。彼の快活さがそのこだわりのない清らかな心から来ていることを知らない人々は、何があってもはつらつとして屈託のないナレンドラの性格をいぶかることもあった。しかしナレンドラは、他人からの称賛も非難も気にかけなかった。中傷に反論するようなことは、その誇り高いハートが決して許さなかったのである。

◎ナレンドラの家系と父ヴィシュワナート

 ナレンドラの家系であるダッタ家は、古い王族の一つだった。ナレンドラの曽祖父のラームモハン・ダッタは弁護士であり、莫大な財産を築いた。しかしその財産を相続した息子(ナレンドラの祖父)のドゥルガーチャランは、若いときから放棄の精神があり、結婚して子供が生まれた後、家族も財産もすべて捨てて出家してしまった。
 その息子、つまりナレンドラの父であるヴィシュワナートは、カルカッタ最高裁判所の弁護士になった。かなりの収入があったが、父譲りの放棄者的な性格もあって、貯金や節約をすることができなかった。自分の将来や人生設計を気にすることもなく、援助に値する相手かどうかも考えずに、誰に対しても手を差し伸べた。心優しい人であったが、同時に愛着は少なかった。長年家を離れていたときも、家族からの便りを待ち望むこともなかった。
 ヴィシュワナートは、聖書や、ペルシャの神秘的な詩人ハフィズの詩などを読むことを好んだ。また弁護士の仕事でよくラクナウ、ラーホールなど、イスラム教徒が多い地域を訪れていた彼は、イスラム式の習慣や風習を好むようになり、その影響で、ダッタ家の夕食には毎日ピラフが出される習慣ができたという。

 ヴィシュワナートは、遠い親戚を含めたたくさんの人々を善意で養っており、食事や必要な品々に惜しげなく出費していた。その中には怠惰で無益な生活を送っている者や、薬物や酒におぼれている者もいた。ナレンドラは成長すると、こうした役立たずを養っている父を非難することもあった。しかしヴィシュワナートはこう答えた。

「人生に降りかかる災難が、今のお前にどうして理解できようか? 彼らの苦しみの深さを感じたら、酒に頼って一瞬でも悲しみを忘れようとする不幸な人たちに同情することだろう。」

 ヴィシュワナートには娘が三、四人いたが、ほとんどが若くして亡くなってしまった。その後に生まれたのがナレンドラだったので、ナレンドラは両親に非常にかわいがられた。
 
 しかし一八八三年の冬、ナレンドラが学士試験の結果を待っていたころ、ヴィシュワナートは心臓発作で急死してしまった。

 気前がよく、慈悲深く、未来を計画しなかったヴィシュワナートは、財産を残していないどころか借金も作っていたので、ヴィシュワナートの死後、家族は赤貧のどん底に突き落とされることになった。

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