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◎ヴァジュラダラ

◎ヴァジュラダラ

【本文】
「深遠なる道・ナーローの六ヨーガのプロセス」

最勝なる世尊ヴァジュラダラ、そしてヴァジュラダラと変わることなき諸々の聖なるかたがたの御足の蓮華に、大きな喜びをもって礼拝いたします。

 あらゆる功徳と神通力を具えた、自在なるヴァジュラダラの本質である、吉祥なるグルの御足に礼拝いたします。

 自在なる成就者であるティロー、ナーロー、マルパ、ミラレーパと伝承されてきた「ナーローの六ヨーガ」といわれる、きわめて甚深なるタントラの要点を集めた道、あらゆる方向に名声が行き渡ったこの道を、ここに説こう。

 これは序文ですが、ちょっと言葉の説明をしていきますが、ここでヴァジュラダラって出てくるね、ヴァジュラダラ。このヴァジュラダラっていうのは、たまにいろんな絵とか像があるんで、見たことは多分みんなあると思うんだけど、右手にヴァジュラ、左手にヴァジュラベルを持ってるんだけど。まあ似てるやつで、ヴァジュラサットヴァはちょっと似てるんで間違えやすいんだけど、ヴァジュラダラっていうのがあります。

 このヴァジュラダラっていうのは、ちょっとこれも知識的な話になるけど、みんな覚えておいたらいいと思うのでね、一応書くと、密教においてはよく五仏っていうのが出てくるんだね。五仏、つまり五人の仏陀。五人の如来ですね。五人の如来ね。これ知ってるかな、みんな。Hさん、なんか一個でも知ってます? 五人の如来。何でもいいよ、何とか如来。頭に思い浮かんだ何か如来。

(H)薬師如来とか……

 薬師如来はちょっと違うね。じゃあKさん何かある? 五仏。

(K)阿弥陀如来。

 そう。阿弥陀如来は入ってますね。阿弥陀如来。これはもともとはアミターバといいます。

(H)大日如来とかもそうですか。

 そう、大日如来もありますね。大日如来はヴァイローチャナといいます。ここからはもうちょっと難しいね。この二つは日本でも有名ですね。阿弥陀如来、大日如来。

 それからラトナサンバヴァっていうのがいます。日本ではアミターバは阿弥陀ですね。ヴァイローチャナは大日、または毘盧遮那とかもいいますが。ラトナサンバヴァは宝生といわれます。宝を生むと書いて宝生。

 そしてアクショーブヤ。これはちょっと字が難しいんだけど、片仮名で書くと、アシュク如来とかいうね。

 で、もう一つがアモーガシッディ。これは不空成就如来といいます。

 はい。これをよく五仏っていうんですね。これがいろんなことに対応されたりする。例えば色でいうと、ラトナサンバヴァは黄色だと。アクショーブヤとヴァイローチャナはちょっと入れ替わったりするんだけど、一応――そうだな、どっちにしようかな――じゃあ一応アクショーブヤが青、ヴァイローチャナが白だと。で、アミターバが赤。で、アモーガシッディが緑色ですよと。

 これが例えば五大元素に当てはめられたりとかね。つまり地、水、火、風、空。ラトナサンバヴァが地、アクショーブヤが水、アミターバが火、アモーガシッディが風、ヴァイローチャナが空とかね。いろんな対応があります。

 あるいはこの仏陀の五つの智慧とか、いろいろあるわけですが、すべてがこの五仏にあてはめられるっていうような教えが密教で展開されるんだけど、ある時期からさらにこの上をいく、六番目の仏陀が登場するんです。つまり、この五つですべてを包含してはいるんだが、さらにそのおおもとにいらっしゃる、もう仏陀の中の仏陀、如来の中の如来、もう最後の最後の最後の存在。だからヒンドゥー教でいったらバガヴァーンみたいな感じだね。つまりシヴァとかヴィシュヌとかルドラとかいろんなのがいるけど、その正体っていうか、おおもとの本当の仏陀の中の仏陀がいますよと。それを本初仏とかいうんだけど。本初仏ね。

 これはね、本初仏の名前っていうのが、ちょっと派によって違うんです。で、このカギュー派では、ヴァジュラダラなんだね。例えばニンマ派ではクントゥサンポっていいます。あるいはヴァジュラサットヴァをこの本初仏にあてる派もある。まあしかしとにかく、カギュー派ではヴァジュラダラこそが、――だからヒンドゥー教でいうバガヴァーンだね、至高者。もう唯一の存在。つまりこの五仏さえもこのヴァジュラダラから生じてるんだというぐらいの、もうこれ以上先がない、本初的な存在ね。これがヴァジュラダラです。

◎究極の帰依

 はい、そして、ここでいろんな祈りを捧げてるわけですが、これを読んで分かると思うけど、ここで大事なところっていうのは――よく読んでみましょう。二行目ね。

「あらゆる功徳と神通力を具えた、自在なるヴァジュラダラの本質である、吉祥なるグルの御足に礼拝いたします」。

 これはすごいことをいっているわけです。つまり、さっきも何度も言ったけども、ヴァジュラダラっていうのはもうこれ以上ないぐらいの仏陀の中の仏陀。ヒンドゥー教でいうバガヴァーン。もうすべてを超えた超越的な唯一の存在なんだと。しかし、例えばですよ、Tさんがいて、Tさんがわたしをグルだと思っているとしたら、「このヴァジュラダラの本質は先生です」って言ってるんだよ(笑)。すごい話でしょ。ね。

 つまり例えばこのカギュー派の話でいったら、ミラレーパだったらマルパっていう師匠がいる。で、「偉大なるすべての本質を一身に集めたヴァジュラダラの本質こそは、マルパ様、あなたです」って言ってる。つまりこれくらいの、もう究極の帰依っていうのが求められるんだね。密教においてはね。

 つまり密教においては師匠――もちろん一般的な修行でも師匠っていうのはとても大事なんだけど、密教においての師匠の大事さっていうのはもう比較にならない。

 例えば普通の教えにおいては、「うちの師匠は本当に偉大なんだ」と、そういうふうに思いなさいっていうのはもちろん説かれる。普通にね。でもその偉大なんだっていうのはもちろん、ある程度限定があるじゃないですか。あくまでも人間ですと。人間ですが、わたしは尊敬していますと。あるいは欠点もいろいろあるでしょうが、でも偉大なわたしの導き手として尊敬していますと。それが普通の師匠に対する考え方だよね。日本で例えば自分の師はこの人ですっていうときも、たぶんそれくらいのフィーリングだと思う。しかしこれはもう全く超えてるんですね。バガヴァーンの本質こそがわたしの師匠ですって言ってる。それくらいの強烈な帰依を持たなきゃいけない。

 この種の話っていっぱいあるから分かるよね。これも何回か言ってるけど、ナーローとマルパの有名な話があって。マルパは三回ナーローのもとに行くんだけど、その三回目のときだったかな、三回目に行ったときに、一緒にナーローとマルパが寝泊りしながらね、暮らしながら修行してるんだけど、ある朝マルパが寝てたら、ナーローに起こされる。「おい、起きろ!」と。「大変だ!」と。「おまえ寝てる場合じゃないぞ!」と。

 チベットとかインドの仏教では、イダムといってね、いろんな仏陀とか神のうち、自分と縁のある神を一人持つんだね。それをひたすら瞑想したりするんだけど、マルパのイダムはヘーヴァジュラだった。ヘーヴァジュラっていう仏陀をイダムにしてた。それを毎日こう心の中で瞑想してたんだけど。で、それはもちろんそのイダムっていうのは、その人にとっては至高者みたいな感じで思うんだね。偉大なる至高者がヘーヴァジュラの形でわたしの前に現われてるっていうふうにイメージして、ひたすらそれを瞑想する。で、マルパが寝てたら、ナーローが、「おい、寝てる場合じゃないぞ」と。「おまえのイダムのヘーヴァジュラが現われたぞ!」と。

 で、もちろんマルパっていうのはいつも瞑想の中でヘーヴァジュラをイメージしてるだけであって、本当のヘーヴァジュラになんて会ったことがない。で、ナーローに起こされてハッと起きたら、本当にヘーヴァジュラがいた(笑)。目の前にヘーヴァジュラがいた(笑)。

 そこでナーローはマルパに問いかけをするんだね。「さあ、どうする」と。「おまえのグルであるわたしに礼拝するか。それともこのヘーヴァジュラに礼拝するか」って言ったんだね。で、マルパは一瞬考えて、わたしのグルはいつもそばにいるからいつでも礼拝できると。しかしヘーヴァジュラが現われるなんてことはめったにないと。よって、ヘーヴァジュラに礼拝しようっていって、ヘーヴァジュラに礼拝したんだね。

 そしたらそれを見てナーローは、「間違いを犯したな」と言って指をパチンとならした。そうするとヘーヴァジュラがナーローの心臓にヒューと溶けていった(笑)。そこでナーローが一つの詩――詩っていうか歌だね。歌を歌うんだね。その歌っていうのはどういう歌かっていうと、

「グルが現われる以前には、仏陀釈迦牟尼の名前すら聞かれなかった。
 千カルパの偉大な仏陀方も、ただグルゆえにやってくる」

と。

 これは分かるかな。つまり、客観的に見るといろんなことがいえるけども、その弟子にとってはもうグルがすべてなんだね。師匠がすべて。つまり師匠がいて初めて仏陀と出会えるし、悟りを得られるしっていう、師匠の絶対性みたいなものが密教ではすごく強調されるんだね。それが一つの密教的修行の特徴といえば特徴ですね。

 その意味はいろんな意味がある。それは今まで勉強会でもいろいろやったし、あといろんなそういうチベット密教系の本とかでもね、『虹の階梯』とか、いろいろ書いてあると思うんで、あんまり突っ込まないけども。

 ちょっとだけ言うと、密教っていうのはつまりかなりのスーパーテクニックなんだね。スーパーテクニックっていうのは、さっきのゲルク派とかサキャ派みたいな感じで、オーソドックスな、誰でもこれをやれば問題ないよっていうような教学と戒律、これだけをやって淡々と進んでいく道ではなくて、師匠がこう弟子のいろんなものを見抜いて、あるいは師匠を通じて偉大なる存在がその弟子にいろんな試練を与えたりして、で、非常に微妙な形で導いてく道なんだね。

 分かりやすくないんです、だからそういう意味では。だから弟子の中にエゴが強くて、師匠をちょっと否定したり、師匠よりもエゴを取る気持ちがあると、それは失敗してしまうんだね。うまーく弟子には全く分からない形で導こうとしてるんだけど、弟子は――つまり、ちょっと、みんながこういうことを受け入れられるかどうか分かんないけど、一般的な修行っていうのは、理解しながら進んだらいいんです。しかし密教っていうのは、理解できないんです。自分の頭でこれを、「はい、理解しました。よし、実践しましょう」――例えば師匠がこれをやれって言ったときに、「先生、ちょっとそれ意味を説明してもらえますか」と。現代的な人ってそういう頭を持ってるから、「ちょっとそれ、ちゃんと理由と意味とか説明してもらえないとやる気しません」と。こうこうこう説明して、「あ、分かりました。それでは全力を尽くしましょう」――一般的な修行はこれでOK。密教はそれでは駄目なんです。何でかっていうと、絶対分からないんです(笑)、師匠がやることっていうのは。あるいは神や仏陀がその人に降ろしてる祝福の意味っていうのは、分からないんだね。

 分からないっていうことを自覚して――つまりわたしは無智だと。無智なわたしを、わたしの師匠は、あるいは神や仏陀がわたしの師匠を通じて、非常に特別なやり方で導こうとしてくださってると。これにはいろんな苦難や、いろんなエゴの嫌がることもあるだろうが、信じてついていきますと。このような最初の心の誓約っていうか、そういうのが必要なんだね。

 だからもちろん、そこに入るまでは自由です。つまり、わたしはこの人を師匠として密教の道を歩みますっていうような気持ちとか誓いとかがある前は、もちろん自由にしたらいい。つまり例えば、「ああ、この師匠からこういうことは得られるな」と。「でもこういうところはわたしには合わないな」――そういう感じでもちろんかまわないんだけど。しかし、「ああ、この人はわたしの本当の師匠だ」と。そして、「わたしを密教的な方法で導いてほしい」と。そう思ったら、さっきから言っているように、限定的な見方じゃなくて、うちの師匠はもう完全にもうバガヴァーンの本質のようなものであって、完全に自分は身をゆだねますと。何の自分の理屈も考えも入れません――ぐらいの気持ちがないと、逆に密教は失敗するんです。

 だって微妙なやり方でやってるから。微妙なやり方の途中で、弟子が自分の勝手な考えで降りたりしちゃったら、ああーって落下してしまうかもしれない。ね。言ってる意味分かるよね? 

 つまりその微妙なやり方っていうのは弟子には分からないわけだけど、もしかするとだよ、これは比喩だけど、本当はこの階段をグーッと上って、山をグーッと何回も周って、十年ぐらいかけて頂上に到達するのかもしれない。で、それを師匠は、山の崖の上からロープで引っ張ってくれてるかもしれないんです。でも弟子は無智なんです。無智っていうことは目が見えないっていうことです。目が見えない。目隠しをされてる。目隠しをされた状態で、師匠が山の頂上から、つまり最短距離で引っ張ってくれてる。でも弟子は目が見えないから、何が起こってるか分からない(笑)。「あれ? 普通の修行って、山道を登るんじゃなかったかな?」と。「でもなんかおれ今、浮いてるぞ」と(笑)。「何が起こってるんだ」と。「いや、師匠を信じよう」と――やってるんだけど、自分のエゴとぶつかることが――例えばその人がコウモリが嫌いだとしてね。コウモリがやってきたと。「あ! これだけは無理!」と。で、ロープを放してしまうかもしれない。そうすると、うわーって落下してしまう。

 その人がその道を歩まずに最初から、時間はかかるけど山道を登ってれば、別に落下はしなかったんです。落下はしなかったけども、早い達成もない。だからそういう意味では非常に危険な道でもあるんだね。非常に微妙な方法で導くから、導いてくれる存在に対する絶対的な信とか帰依がないと、そのような危険も伴う。だから徹底的に師への帰依、師への確信みたいのを最初に持たせるんだね。

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