菩薩の道(6)その2「解脱と智慧」
原始仏典に見るお釈迦様の教えによると、我々を苦悩の世界に結び付けている因は、無明と渇愛です。
このうち渇愛とは、経験に対する強い欲望と嫌悪といっていいでしょう。これが強い執着を生み、我々を苦悩の世界に縛り付けています。
禅定の修行によって心を静めることに成功するということは、これら欲望と嫌悪が静まり、静かな心の状態になっていくことといっていいでしょう。
渇愛という鎖によって我々がこの輪廻にしばりつけられているとしたら、その渇愛が静まった段階で、我々の苦悩は消えます。そしてさらに経験しなければいけないカルマの果報も浄化された場合、その人は輪廻から解脱するでしょう。
しかし、無明があると、また輪廻に舞い戻ってしまう可能性があります。
昔見たテレビのコントで、牢屋に閉じ込められた男が、牢屋で食事中、看守が鍵をかけ忘れたことに気づくのですが、男はそこから外に出て、食事に足りなかった醤油をとってきて、また牢屋の中に戻ってくるというコントがあったのを覚えています(笑)。
これは解脱と悟りの違いをよく表わしています(笑)。輪廻という牢獄の鍵が開け放たれた状態。これが、渇愛が静まり、解脱のパスポートを得た状態です。しかし智慧(悟り)がないと、また新たな心の汚れを作り出し、輪廻という牢獄のデメリットを知らず、また舞い戻ってしまうのです。
日常においてはどうでしょうか。日常において、渇愛(経験から来る欲望と嫌悪)を滅した人(解脱者)に、苦しみはありません。しかしこの人が智慧を得ていなかったら、新たな経験をしたときに、新たな苦しみの因をまた作ってしまう可能性があります。
よって、禅定によって心を静め、渇愛から解脱するだけではなく、無明を超えた智慧(悟り)を身につける必要があるわけです。
ここでいう智慧とは、経験や情報に左右されずに、存在の本質を常にありのままに観る力といってもよいでしょう。
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