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「解説『バクティヨーガ・サーダナー』」第一回(9)

 はい、今日の話と関係があってもなくてもいいので、質問、何かある人いますか? 

(H)先ほど、人の長所とか短所とか気になるのは、自分のカルマのせいだっていうことだったんですけど、じゃあ例えばお店とか電車の中とかで、すごいうるさい人がいて、そういう人を見るとすごく嫌だなって思ったりするんですけど、それも昔、自分が短所として持ってたっていうことでしょうか?

 昔短所として持ってたかもしれないし、今現在、なんていうかな、なんらかのそれに関わる欠点、けがれを自分が持ってるっていうことですね。
 この概念の一番分かりやすいたとえは、これは何度か言ってるけどね、つまりりんごのたとえね。りんごのたとえっていうのは――はい、りんごが運ばれてきましたと。で、大きなりんごと小さなりんごがあると。で、二人いたとしてね、例えばわたしとM君がいて、わたしが「おれ、これ!」って言ってね、大きな方を取ったとするよ。で、ここでもしM君の心に「ああ先生、意地汚い」ってわいたとするよ。つまり、これはM君が意地汚い。うん。分かるよね? もしM君の中に貪り、つまり「できれば大きい方がいいな」っていう気持ちがゼロだったら、わたしが大きいのを取っても、なんとも思わないんです。で、逆にM君の中に、逆のパターンでね、貪りどころか「ああ、できればわたし以外の人がいっぱい食べてほしい」っていうことを心から思ってたら、わたしが大きいのを取った瞬間にパーッてこう明るくなり、「やったー!」ってなります。偽善じゃなくてね。これが心のあらわれっていうことだね。
 で、逆に、もう一回言うけども、ちょっとでも、なんか頭では「みんなに捧げたい」って思ってるけど、でも「できれば、おれ、りんご好きだから、できれば大きいのがきたらいいんだけどなあ」なんて思いがちょっとでもあったとしたら、もう一回言うけども、誰かが貪って「おれ、これ」って取った段階で嫌な気持ちになる。つまりその人を非難する気持ち。「あいつ貪り強すぎるんじゃない?」と。「なに、でかいの取ってんの?」みたいな感じでね。
 あの、皆さん、だからこれは注意してください。もしこの中でそういう――例えばですよ、誰かがお供物とかでね、大きなものを取るとかおいしそうなものを自分が取って、そこで非難の心が出る。「なに、あの人」と。「自分のことしか考えてないの? おいしいものばっかり自分で取っちゃって」っていう思いが出るとしたら、自分が意地汚いってことです(笑)。自分が、表面上はみんなに合わせて「わたし、みんなのためを思ってるよ」って思ってるけど、本音では「おれが一番うまいものを食いたい」と思ってる(笑)。これがあるから、極論すれば、これがあるから見えちゃうんです。
 逆に言うと見えないんです、これがなかったら。自分の中に――今のたとえで言ったらね、自分が誰よりもおいしいものを食べたいっていう気持ちがゼロだったら、そういうので貪ってる人がいても、全く気づかないんです、ある意味ね。気づかない。言われれば、「ああ、確かにあの人の中になんかおいしいものいっぱい混ざってるけど、まあ、それがどうしたの?」っていうかね。それに意味付けが全く思い浮かばないっていうか。
 これは、今のは極論ですけども。だからこういう感じで――でもわれわれは、実際には心の中にいろんなけがれがあるから、そのけがれの集大成として、いろんなものに少しずつ欠点を見てしまうんですね。でも逆に言うと、でも日常でも皆さん、あるいは過去を振り返って、さあ、こういう経験あるでしょ? つまり、人は結構非難するけど、自分は引っかからない。これはあるよね。例えば、周りの人たちが「あの人のこういうとこ、こうよね、こうよね」とか言うんだけど、自分としては別に「えっ、それが何なんだろう?」って思ってしまう。つまりこれが逆に言うと、自分の中にないやつですね。自分の中にその同じようなけがれがない場合は反応しないっていうか。
 だからその、実際には今みたいに分かりやすくないんで、例えば電車でうるさい人がいた場合に、それが自分の中のどういうけがれに反応してるのかは、分かりづらいんですけども、でも、少なくとも何かのけがれだと思ってください。何らかのけがれがあって、あるから、逆に言うと見えてしまう。見えてしまうし、反応してしまうっていうことですね。
 だからユクテスワとかが言うように、あるいはホーリーマザーとかが言うように「そのようなけがれが、全く見えなくなりますように」と。つまりその、「世界の悪に気づかないような、完全に気づかないような自分になりますように」っていう祈りがあるんだね。それはつまり、外的な世界の悪をなくすっていう意味じゃなくて、自分が気づかない人間にならなきゃいけないっていう意味ですね。その段階ではじめて、つまりすべて鏡っていう意識でいったらね、自分の中が、完全にきれいになったっていう証拠になるわけですね。
 だから、そこまでいくのは難しかったとしても、第一段階で、これは投影なんだっていうかな、相手が悪いわけではなくて、自分のけがれの投影なんだっていう心を持ったら、ちょっとはまあ慈愛を持ちやすくなると思う。いいですか? 
 あとさ、そういうふうに思ったらさ、だいたいその、なんていうかな――自分にとって、「うわっ、この人は」っていう人いるよね、例えばだけど。あるいは「こういうことされると、もうわたし駄目」とかね、「批判したくなる」とか、あるいは特に、まあ最も強烈なのはさ、やっぱり人間ね。例えば「ああ、この人」とかあるよね。「この人苦手」――これは今の理論から言うと、超近い人です(笑)。つまり自分の中に、同じような要素がかなりある人。で、この教えを最初聞くと、だいたい受け入れられないんだね。つまり例えばHさんのもう――まあ仮にですけどね、仮に、「もう、この人だけは無理」みたいな人がいるとして、で、わたしが、「それ、かなりHさん、同じ要素あるよ」って言われたら、「やめてください!」と(笑)。ね。「やめてください、それだけは――わたしは先生の教えをいろいろ信じられるけど、それだけは信じられない! 受け入れられない!」(笑)。

(一同笑)

 これを受け入れたら、かなり悟りに近づきます。この宇宙の秘密をかなり知ることになるね。ここに結構、鍵があるんだね。
 だから自分の、「もう、受け入れられない」っていう人がかなり同類であると、仲間であるのに気づいたら、かなり進歩します。
 で、逆に、だからこそ相手を批判できなくなる。そして、なんていうかな、批判したくなくなる。つまりその、批判する相手、目につく相手と、自分の中に多くの同じようなものがあるっていうことがもし嫌だとしたら、当然それは自分でそれを直そうとするだろうし、あるいは相手のそういうものに、あまり目を向けたくなくなるっていうかな。逆にその相手のいい部分を探そうっていう気持ちが出てくるんですね。
 だからまずはその現実を受け入れなきゃいけない。現実として、自分が引っかかる人、批判したい人は、同じけがれが相当自分の中にあるんだと。だからここで、それがもし嫌なんだったら、自分の中の同じような部分をまず浄化して、その世界から抜けなきゃいけないし。その批判自体に集中してたら、ずっと終わらないっていうかな。そのループの中で、相手と自分でグジャグジャやってるだけで人生終わってしまう。人生終わるっていうか、輪廻ずーっとします、それで(笑)。その自分が嫌なこと感じる相手と、ぐるぐるぐるぐる影響を与え合いながら、ずーっと輪廻します。こんなの嫌でしょ? だったら批判をまずやめて、自分の中に問題を見い出して、それを浄化してくっていうかな――ということですね。はい。

(H)ありがとうございまいした。

 はい、ほか、はい。

(Y)すいません、今の話の続きなんですけど、自分の目の前に現われた人とか現象が、自分の心の表われであるっていうことに関連してなんですけども、現われたものに対して、自分がそのなんらかの感情がわき立つっていう概念は分かるんですけども、別に嫌でもなんでもないんだけども目の前に……

 あ、それはね、原則で言うと、つまり自分の目の前に現われるものは、過去のカルマの現われです。それを、どう感じるかは、今の心の表われです。――っていう定義だね。
 だからいつもここで学んでる人は分かると思うけど、カルマの流れと、それから精神的にそれをどう感じたり認識するかはまたちょっと別なんですね。うん。
 つまりその、まあ逆に言うとさ、まあ前も言ったけど、一番極端な例ではさ、九百九十九人殺したアングリマーラの例がありますよね。つまりアングリマーラは九百九十九人殺したと。で、そのあと解脱したんだけど、でもまあこの世に身を置いてるから、一応その流れは受けなきゃいけなかったから、解脱した後もみんなから石投げられて、いつもこう血だらけで重傷を負ってたと。これは過去のカルマですよね。でも、彼は心はもう完全に悟ってたから、全く苦しみを感じなかったと。これがだから、過去のカルマの清算は受けなきゃいけないけども、精神状態がどうであるかによってそれをどう感じるか、苦しいのか、嫌なのか、いいのか、何もないのかっていうのは全然違うっていうことだね。

(Y)はい、分かりました。

 あの、Yさんの質問、もう一回、若干だけ付け加えると、つまりその、例えば皆さんに――仮の話ですけどね、もし皆さんに過去に貪りのカルマがあったとしたら、当然周りには貪りの強い人が集まります。あるいは、そういう人をよく目にするようになる。例えばなんかこう、ズルをするとかね、あるいはなんかだまし取るとかいう人が周りに現われ出します。で、そのときに皆さん、教えを学んでるから、ある意味狭間に立つんですね。狭間っていうのは、教えを学んでるから、そういうの見ても心が動かなかったり、あるいは、ただ哀れみが出たりするわけだけど、でもある意味、これは狭間なんです。狭間っていうのは、ちょっとでも気を抜けば、またそのカルマの世界に心も巻き込まれます。これは最悪です。つまり現象が悪いことが起きて、心がそれに反応して、これでカルマが回ってるから。だからそういう意味では、日々皆さんは狭間に立ってる。だから例えば貪りなら貪り、怒りなら怒りで、「あ、相手を批判してしまいそうだ。でも、法則によって見ることもできるかもしれない。」――この狭間にいるわけだから、常に法を取ると。常に相手の悪いところを見ない、っていうのはこういう大事な意味でもあるんだね。これによって、現象は生じるだろうけども、心は全くだんだん反応しなくなってくるっていうか。このベクトルの方に自分を常に持ってく必要があるっていうことですね。

 はい、じゃあ終わりましょう。

(一同)ありがとうございました。

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