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菩薩の道(6)その1「湖と光」

6.智慧の完成の修行--真理の智慧が顕現する

  その1

 さて、禅定の項目がかなり長くなってしまいましたが、そろそろ次の「智慧」の段階へと移りましょう。

 まず少し言葉の勉強というか解説をしておきますが、ここでいう智慧とは、サンスクリット語でプラジュニャー、パーリ語でパンニャーですね。これは音訳して「般若」、意訳して「智慧」「悟り」と訳されます。
 「智慧」にも「悟り」にもそれらをあらわす多くの別の言葉もありますが、多くの場合、このプラジュニャーを訳して智慧とか悟りとか言われる場合が多いので、普通は、智慧も悟りも同じと考えていいでしょう。

 ところで、禅定というのは、心の湖の喧騒を鎮めることだと言ってもいいでしょう。
 言い方をかえれば、それは「寂静の瞑想(サマタ)」の段階です。
 心の湖の奥に、真実が隠されていると考えてください。しかしこの心の湖は、怒りで煮えたぎっていたり、雑念によりさまざまなゴミが浮いていたり、興奮により湖底の泥がかき乱されていたり、執着によって水に色がついていたり、無智によってよどんでいたりします。この状態では、湖は大変濁り、その奥にある真実を観ることができません。
 よってまずさまざまな条件を整えて心の湖を鎮めなければなりません。それに成功し、静かで透明な心の湖が達成された段階が、サマタであり、禅定であり、サマーディであるといえるでしょう。
 そして智慧の修行においては、その静まって透明になった湖を、観察(ヴィパッサナー)するのです。
 ですから、よくヴィパッサナーばかりを強調する人がいますが、本当の意味でのヴィパッサナーというのは、ある程度しっかりしたサマタの瞑想が達成されないと、不可能なのです。サマタが達成されていないと、その人は心の湖に浮かぶゴミを見て、これが真理だと錯覚するかもしれません。あるいは執着により色がついている心の湖を見て、真理とは青色だとか、赤色だとか言うかもしれません。それらはすべて錯覚です。

 ところで、湖が静まり、透明度が増したとしても、実際にその中を観察するには、光が必要です。透明でも、暗かったら何も見えません。
 そしてこの心の湖を照らす光、サーチライトの役割を果たすのが、「功徳」なんですね。

 この一連の話では、十波羅蜜と十地を対応させて説明していますが、十波羅蜜に含まれる、もっとコンパクトな六波羅蜜を考えてみた場合、

 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧

というこの六項目なわけですが、よく、最初の五項目を功徳(方便)の道、最後を智慧の道と表現したりもします。
 しかし私は正確にはそうではなくて、最初の布施・持戒・忍辱・精進が、功徳を蓄積し、悪業を浄化していくという道であると思います。
 功徳というのは、光です。これは観念的なイメージ的な言い方じゃなくて、本当に物理的にそうなんです。功徳が増すと、実際に内側で光の強さが増します。これは経験上、間違いのないことです。逆に悪業が増すと、内側の闇も増します。
 またもちろん、布施・持戒・忍辱・精進というのは、透明で静まった心の湖の状態を作り、サマタの禅定の状態を作る土台となるともいえるでしょう。

 これらの項目はすでに説明しましたが、そのような観点からもう一度簡単に説明しますと--

1.布施・・・◎大事なものを差し出すことで、執着の心を弱める・・・禅定の準備
       ◎物を施したり、人に幸福を与えたり、真理を与えたりすることで、徳を積む・・・智慧の光を強める

2.持戒・・・◎悪業を行なわないことにより、心は静まる・・・禅定の準備
       ◎悪業を行なわないことにより、闇の力が弱まり、相対的に功徳の光が強まる   

3.忍辱・・・◎自分の過去の悪業の果報である苦しみに耐えることにより、心が静まる・・・禅定の準備
       ◎自分の過去の悪業の果報である苦しみに耐えることにより、闇の力が弱まり、相対的に功徳の光が強まる

4.精進・・・◎心を鎮めることに精進する・・・禅定の準備
       ◎功徳を増大させることに精進する・・・智慧の光を強める

 このように、六波羅蜜の最初の4項目のそれぞれが、心を静める禅定の土台作りであると同時に、智慧の光を強める土台作りにもなっているのです。

 これらの土台をもとに、心を静め、透明な湖の状態を達成する--これが禅定の完成の修行ですね。
 そしてその静まった心の湖に、功徳によって強められた心の光を当てる--これが智慧の完成の修行で行なわれることです。

 だから、瞑想をして、心は静まっているけど、真っ暗で何もないという場合、これは功徳の光が弱いことが考えられます。このような人は、瞑想に励むより、まずは功徳の集積に尽力したほうが良いでしょう。
 瞑想すればよいというものでもありません。功徳の光なく瞑想した場合、非常に低い世界に引きずり込まれてしまう場合もあります。

 心が静まった状態というのは、「無」ではないのです。それは透明で、生き生きとしており、輝きがあり、広がりがあります。

 ただし、高度な瞑想の状態で、黒いエネルギーの中に包まれる段階はあります。これは悪業の闇とは違い、ある高度な瞑想で現われる、良い意味での闇のエネルギーです。しかしこれは非常に高度な段階です。禅等で言う無とは、本来はこれを指しているのかもしれないとも思います。しかし普通の人が座って、普通に真っ暗闇だという場合、それは単に心に光が少なく、悪業の暗闇で覆われているだけです。

 まあしかしこの「高度な暗闇」については、本当に高度な瞑想の段階で現われるので、ここでは話をややこしくしないために、これ以上言及しないでおきましょう。

 ひとまずここまでを少しまとめますと、正しい布施・持戒・忍辱・精進の実践により、透明で静まり、生き生きと輝く心の湖の状態の達成がなされたら、功徳の蓄積による心の光によって、その心の世界を観察していく。これが智慧の修行であり、本当の意味でのヴィパッサナーの修行といえるでしょう。

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