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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(1)

解説 スートラ・サムッチャヤ 第11回

◎大乗を修め取る法

【本文】

◎大乗を修め取る法

 サーガラマティパリプリッチャーには、こう説かれている。

「もろもろの海のような智慧を持つ菩薩が大乗を修め取る法は、菩提心を忘れることなく、怠惰でなくあることである。

 また別の法もある。それは、自分の安楽にとらわれない大慈悲心である。

 また別の法もある。それは、法を説く清浄な師を尊敬することである。

 また別の法もある。それは、如来の境地に住する者、あるいはニルヴァーナに至った師を供養し、尊重することに足ることを知らないことである。

 また別の法もある。それは、すべては本来生じることがないことを知って、不生不滅の理に安住して動じることがないことである。」

 はい。「大乗を修め取る法」ね。つまり大乗のこの菩薩道というものを、しっかりと自分のものにして吸収するっていうかな。それと一体化するには、っていうことですね。
 この『スートラ・サムッチャヤ』も、あるいは『シクシャー・サムッチャヤ』も、もちろん『入菩提行論』もそうですが、なんていうかな、特にこの『スートラ・サムッチャヤ』とか――『入菩提行論』は皆さんよく知ってのように、シャーンティデーヴァの書下ろしなので、全体的に流れるように体型的に書かれてるんですが、この『スートラ・サムッチャヤ』と『シクシャー・サムッチャヤ』は引用集みたいな感じなので、素晴らしい、なんていうかな、一節一節がコンパクトにまとめられた言葉がいっぱいあるんだね。その一つだけでも例えばとっても――今読んだところもそうですけどね、本当に貴重なというかな、素晴らしい一節なんだね。これだけを例えば、読み続けてもいいぐらいのものですよね。
 はい。で、一体どのようにしてわれわれは大乗、つまり菩薩道というものが机上の空論ではなく、われわれの身になり、肉になり、血になり、心と一体化できるのかというのがコンパクトに説かれてる。
 まず第一に、「もろもろの海のような智慧を持つ菩薩が大乗を修め取る法は、菩提心を忘れることなく、怠惰でなくあることである」と。
 あの、ここで「もろもろの海のような智慧を持つ菩薩が」ってバーンってこう、すごく書かれてるけど、もちろん、「いやあ、わたしたちはそうじゃないから」とか思っちゃ駄目ですよ。ここにおいては当然、大いなる誇りを持ってください。誇りね。つまり、「わたしは菩薩なんだ」と。ね。この「もろもろの海のような智慧を持つ菩薩」――おれのことだと(笑)。ね。「われこそは菩薩なり」と。そのような偉大な誇りをね、持ってください。これはね、はっきり言いますが、本当です(笑)。皆さんはもう菩薩の道に足を踏み入れてる。それはまあ、自信を持ってかまわない。
 いつも言ってるけどさ、あの、なんていうかな、すべては因があって果があるから、皆さんが例えばこのようにこの場に集い、そして菩薩の道を学べると。それどころか皆さんはもう分かってると思うけど、カイラスで教えてることってかなり厳しいからね。「余すところなく神にささげよ」とかね(笑)。「自分と他人を交換しろ」とかね(笑)。極限的なあの(笑)、極限のバクティと極限の菩薩道がバーンってなんの躊躇もなく説かれ、みんな「はあ~」って聴いてるっていう、こういう空間ってなかなかないですよ(笑)、普通はね。うん。非常に普通はオブラートに包んだ感じで、みんなのエゴに抵触しないように教えが普通は説かれるんだね。それでもそういう教えも理解できない人が多いわけだけど。このようにストレートに菩薩道、あるいはバクティの道を学べる皆さんっていうのは、まあつまり、そういう因がなきゃいけないんだね。
 つまり皆さんもともと、今生いろいろけがしてきちゃったから、あの、なんていうかな、今生いらぬ卑屈さ、いらぬ自己否定を身につけてる人が多いと思うんだね。うん。例えば菩薩道とか言っても、「いや、わたしは……」っていう人が多いと思うんだけど、それはなんでそう思うかっていうと、当然修行に入る前のデータですよね。うん。修行に入る前の自分を振り返ると、「こんなこともあって、こんなこともあって……こんなおれが菩薩と言えるか」って、それがあると思うんですよね(笑)。でも「バクティヨーガの歌」でもあるように、「過去のことは忘れましょう」と(笑)。過去のことは忘れちゃってください。ね。で、過去のことっていうよりは、もっと過去のことを思い出してください。ね。つまり、われわれが生まれる前のこと。それはもちろん、覚えてはいないだろうけど、類推すると、「これだけ素晴らしい教えを学べる、菩薩道を学べるわたしは、何生も何生も菩薩の道を歩んできたに違いない」と。「それは自信を持っていいんだ」と。
 「今生このカリユガに生まれちゃって――まあ仕方なくっていうかな、情報に飲み込まれ、いろんな悪いことやっちゃったけど、あるいは心けがしてきたけども、まあそれはそれとして、それは将来的にもちろん浄化するとして、わたしの本質はなんら変わってない」と。
 「わたしが例えば十生前か、百生前か、一カルパ前か分かんないけども、そのときに誓った菩薩の誓いっていうのは、一切変わってないんだ」と。
 あるいは、「そのときに誓った神への絶対なる帰依っていうのは、一切けがされてないんだ」と。
 「けがれているのはわれわれの表面の意識だけであって、われわれの本質の誓いや、発願っていうのはけがれてないはずだ」と。
 そういうね、なんていうかな、確信っていうか。で、その確信がないっていう人は、思い込んでください。それは全くかまいません。思い込んでください。わたしはやっぱり最近よく思う。いろんな人見てて――もちろんさ、「おれはすごい修行者だ!」って言って慢心に陥るのも駄目なんだけどね。でもそれ以上にやっぱり現代の人ってその、卑屈なんだね。うん。卑屈っていうか自分を低く見すぎてるっていうか。だから慢心ぐらいでちょうどいいのかなって感じがしてきた、最近(笑)。

(一同笑)

 みんななんか自信なさ気だから。つまりね、例えばさ、皆さんがさ、「この修行できません」もしくは「戒律守れません」「頑張れません」――これはっきり言ってね、誇りがないんです。うん。誇りがないっていうのは、つまり、修行者っていうのはさ、つまり誇りを持たなきゃいけない。この誇りっていうのはどういう意味での誇りかって言うと、あの、そうだな、例えばY君がなんかいろいろ日々悪いことしてたとしてね。悪いことっていうか、修行者らしからぬことしてたとして、でも今日から例えばですよ、Y君が――まあカイラスではあんまりそういうのないけども、「今日からカイラスの指導員として認めます」と。で、指導員だけじゃなくて、何か、ちょっと位をつけたとして――まあそういうのカイラスにはないけども(笑)。例えば「なんとか僧院長」とかね(笑)。「カイラスの大僧院長」として認めますって言ったら、実態が伴ってなくても、つまり「まだまだ心におれはけがれがあるんだ」と思ってたとしても、「あ、おれ、そういうなんか、みんなの見本にならなきゃいけないから、おれは偉大な菩薩のリーダーとして頑張んなきゃ!」ってなると、普段だったらちょっと悪いことして遊んじゃいたいことがあったとしても、「いや、駄目だ」と。「わたし菩薩ですから」ってなれると思うんだね。これが誇りの力なんです。誇りがしっかり皆さんに身についてれば、あるいはいつも言う高いアイデンティティですね。「わたしは菩薩なんだ!」っていうアイデンティティが自信としてしっかりあれば、それによって、なんていうかな、低いけがれなんていうのは簡単に乗り越えられるんだね。「え? そんなのなくて当たり前じゃないですか」と。「そんなけがれ、わたしにははあるわけないじゃないですか」と。ね。これが誇りの素晴らしさだよね。
 でも皆さんはそうじゃなくて卑屈なので――卑屈っていうのは、「わたしは……」っていうそういう卑屈の人もいるけども、そこまでストレートじゃなくても、その、なんていうかな、本来の皆さんの、当然思っていい自信みたいなものを持ってないっていうかね。うん。「全然、自分は駄目な普通の人間だ」みたいな感じになっちゃってる。だからそこら辺はね、本当にもう自信を持ってください。もう本当に何度も言うけども、結果がすべてを表わしてるから。うん。「わたしは偉大な修行者なんだ!」と。
 あの、「如来だ!」まで思っちゃ駄目だよ(笑)。

(一同笑)

 「如来だ!」とか「バガヴァーンだ!」とか言っちゃうと(笑)、「それは魔境ですね」ってなってしまう(笑)。それは言い過ぎなんだけど、そこまではいかなくても、「偉大な勇猛な志を持った菩薩なんだ!」と。「如来や仏陀を目指してる偉大な魂なんだ!」と思ってかまわない。で、その上で、もちろん今生で積んでしまったいろんなけがれはもちろんあるから、それはもちろん浄化するための試練は受けなきゃいけないんだけど、でも、なんていうかな、「この何十生、あるいは何百生も積み上げてきた、わたしの菩薩の心というものがね、そんな今生作ったぐらいのけがれに負かされるわけないでしょう」と。あるいは、「その試練に耐えられないわけないでしょう」と。「そんなものは屁でもねえ」と。それくらいの強い自信を持つといいと思うんだね。
 だから、もう一回言うけども、「われは菩薩なり!」と。で、よって、例えばここに書いてあることもそうですけども、「わたしは菩薩なんだから――いつも言うようにね――菩薩なんだから、菩薩の生き方、菩薩の教えとして書かれてるものが守れて当たり前である」と。っていうかやんなきゃいけない、そんなことは。やんなきゃいけないのは当然なんだと。ね。卑屈になってる暇はないし、あるいは自分のけがれを肯定してるような暇もないと。時間もないんだし。
 これはね、本当に、いろいろ――いつも言うけどさ、いい妄想ってしていいからね。いい妄想ってしていいですよ。例えば「わたしはみんなを救うために、神の命を受けてこの世に生を受けたんだ」と。「でも時間がない」と。ね。だっていつ死ぬか分かんないし、あるいはこの世界自体も、これからどうなっていくか分からない。「だから早くわたしが修行を達成しないと駄目じゃないか」と。「みんながそれを待ってる」と。これはさ、そういうこと言うとちょっと恥ずかしがる人もいるかもしれないけど、あるいはちょっと考え過ぎって思う人もいるかもしれないけど、そんなことありません。思い込んでください。「みんながおれを待ってる」と。
 でもそれ本当なんだよ。いつも言うけどね。みんなは皆さんを待ってるんだよ。いつも言うけど、縁のある人がいてさ、わたしと縁がなくて、Y君と縁がある人っているんだよね。その場合はわたしは手が出せない。Y君しか手が出せないっていうか。つまり、Y君が覚醒して初めて、その力っていうかな、その影響がその人にいくと。だから頭ではそんなこと思ってないだろうけど、その人の魂っていうか、それは待ってるんだね。「Y、早くしろ!」と(笑)。ね。「早くしてくれないと、おれは今生も苦しいまま終わってしまうかもしれない」っていう魂が周りにいっぱいいるかもしれない。ね。だから時間がないと。
 そしてもう一回言うけども、「わたしは今、けがれたどうしようもない魂で、そこから遥かな菩薩を目指すん」っていうんじゃなくて、「おれはもともと菩薩なんだ!」と。うん。「菩薩として何生も何生も仲間と共にその道を歩んできたんだ」と。そういう確信を持つといいね。「だからこんなことやってられないんだ!」と。「エゴがどうとか、嫉妬がどうとか(笑)、あれが欲しいとかね、そんなのはどうでもいいんだ」と。「あれよりもわたしの方が小ちゃかったとか、そんなのはどうでもいいんだ」と(笑)。「そんなくだらないことに心をとらわれてる、足をとられてる暇は全くない」と。ね。早く目を覚まさなきゃいけないということを強く、誇らしく考えたらいいね。
 でね、そこでちょっと慢心が出る場合もあると思う。でも、さっきも言ったけど、そんなのはどうでもいいです。わたしやっぱり見てると、それよりも、その誇りがないことによるけがれの肯定っていうかな。誇りがないことによる、なんか甘えっていうかな。それに陥ってる人が多いんだね。うん。だからガーンと誇りを持ってください。何度も言うけどね。「われは菩薩なり」と。でもさっき言ったけど、例えば如来と思ってしまうとか、あるいは、なんていうかな、中身のないプライドは駄目ですよ。中身のないプライドっていうのは、「おれは菩薩だ!」とか言って、全然何も修行しないで、人を批判してばかりいるとしたら、それはもう全然駄目ですよ。それは皆さん分かると思う。つまり教えが入ってればね。つまりその、自分が誇りがあるっていうことは、当然教えどおりに生きなきゃいけないわけだから。人を批判してはいけないし、あるいは、自分が偉大な菩薩であればあるほど、謙虚でなきゃいけないし。その辺は教えどおりちゃんと生きるとしてね。自分の中でですよ、自分の自意識として、しっかりとした、「わたしの本質は菩薩なんだ」っていう自意識を持ったらいいね。

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