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菩薩の道(5)その9「常にサマーディ」

 さて、禅定の項目も、そろそろまとめに入ろうかと思います。

 この禅定において重要なのは、とにかく【軽安】という状態をまず実現することですね。
 私自身は、自分が完全な解脱や悟りを得ているとは言いません。段階的な解脱や悟りについては、まあ定義もいろいろありますので、これまた断言するのは難しいところです。しかしこの軽安については、得ているとはっきりといえます。
 逆に言えば、真剣に正しく修行すれば、軽安の状態を得るのはそんなに難しくないのではないかと思います。といっても私は数年かかりましたが・・・私の場合は中学生のころから修行していて、最初は暗中模索で無駄な修行もいろいろしていたので、最初から効率的で正しい修行を真剣に行なえば、もっと早くその状態は得られる気がします。

 軽安というのは、復習しますと、心身が非常に軽快で安らかで安定している状態ですね。それはエクスタシーを伴い、爽快で、身体が感じられないような状態です。精神的にも怠惰でなく、興奮もしていず、ただ透明で生き生きとした安らかな状態があります。
 これだけでも十分悟りではないかと思われるかもしれませんが、これはまだ悟りではなく、瞑想の準備段階に過ぎません。
 そしてこのときの意識は鮮明でなければなりません。
 このような状態で1時間、2時間と集中できるようになって始めて、瞑想は深化していきます。 

 このような状態を得られない場合、ヨーガその他で基礎作りをするのも大事ですし、また、瞑想そのもので言うと、たとえばマントラにしろ、イメージを使った瞑想にしろ、とにかく1時間とか2時間とか、徹底的に集中する訓練をするのが良いですね。瞑想とは結局は集中ですから。
 どんな方法の瞑想をするにしろ、とにかく鮮明な意識のまま、1~2時間それを持続できるようになって初めて、思索する瞑想に入れるといっていいかもしれません。そして思索の瞑想をまた長時間持続できるようになると、その証拠として、必ず心身の喜びとエクスタシーが増します。その状態になって初めて、無思考で集中する瞑想に入れるのです。

 ところで、瞑想の準備となる念正智の修習に関しては、一般的な四念処だけではなく、たとえば大乗仏教にはまた独特の念ずべき見解がいろいろありますね。それについては「解説・入菩提道論」のほうで説明していきたいと思います。

 さて、経典では、この禅定の完成から生ずる「征服されない」という境地に至ると、菩薩は、この現世においてさまざまな活動に従事するとされます。もちろん、意味なくそういうことをやるのではなく、人々を救済するために、この現世においてさまざまなことを行なうのです。

 しかし、瞑想の段階において、さまざまな現世の活動に従事するとは、どういうことなのでしょうか?
 よく、大乗というのは、瞑想をせずに現世で自己を鍛える道だと勘違いする人がいます。
 そうではないのです。瞑想の完成において現世での活動が許されるというのは、つまり、現世でさまざまな活動をしていても、常に瞑想状態が持続しているということなのです。
 それには、もちろん、その菩薩が座って瞑想の状態に入れば、すぐに究極のサマーディ状態に自在に入れ、何時間でもそれを持続できるようでなければなりません。
 座って瞑想することが出来ない者が、瞑想できないことの言い訳に、「自分は大乗だから、瞑想ではなく現世で修行するんだ」というのは、ただの言い訳に過ぎません。

 こういう話があります。
 チベットにある聖者がいました。この聖者は弟子たちとともに村のようなコミュニティを作り、一緒に生活しながら修行するというスタイルをとっていました。
 そこへある学僧がやってきました。彼はこの聖者の名声に嫉妬し、彼の劣ったところを見つけ、論破してやろうと、悪しき考えを抱き、彼のもとへ行きました。そして学僧はその聖者を一日観察していたのですが、その聖者は全く瞑想することなく、ただいろいろな仕事をこなしたりしているだけです。
 そこで学僧は聖者に、
「あなたは一体いつ瞑想しているのですか?」
と聞くと、聖者は、
「瞑想する必要があるのか?」
と答えました。そこで学僧は驚き、
「では、あなたは瞑想を全くしていないのですか?」
と聞き返すと、聖者はこう答えました。
「わしがいつ、集中をそらしたことがあるというのか?」

 つまりこのように、何をしていようとも、宇宙の本質、心の本質に常に集中し、サマーディ状態にあること。これが理想です。しかしそのためにはその前に、少なくとも座っているときには完璧にサマーディ状態に入れなければなりません。そうしてサマーディにおいて自在を得た段階で、そのサマーディ状態を保ちつつ、菩薩は現世の活動を行なうのです。だから、瞑想も出来ない者が、俺は大乗だと言って修行もせずに現世の活動を行なうこととは、全く意味が違うのです。

 私は以前、こういう話を聞いたことがあります。ヒマラヤで修行していたヨーガの聖者が、日本に招待され、来日したのですが、見たこともない日本の煩悩的文化にしばらく触れていた彼は、修行をやめて現世的人間になってしまったということです。
 この聖者は、偽者だったというわけではありません。本当に聖者だったのです。しかし、彼はヒマラヤという守られた空間ではサマーディに入れたかもしれませんが、現世の中でそれを保てる状態までは至っていなかったのでしょう。つまり現世的情報、煩悩的刺激という悪魔に「征服された」のです。

 そうではなく、繰り返しますが、まず座ったときは完璧にサマーディを達成し、しかもそれはさまざまなタイプのサマーディを達成し、次に座を立ったときにもサマーディを持続させ、常にこの世界の経験すべてに真理を見出す智慧を得、何をしていようと、どんな状態にあろうとも、煩悩的刺激という悪魔に征服されない段階。
 これこそが、菩薩の第五段階、「禅定の完成--征服されない者」という境地ではないでしょうか。

 ここまで読んでもわかるように、この菩薩の十段階のプロセスというのは、その一つ一つが、とてつもなく高い段階のことを言っているといえます。この第五段階の完成などは、今生で我々が達成できるかどうかもわからないものです。しかしその達成に努力することは重要ですし、また、完全ではなくても、それぞれのパーラミター、あるいは十地のそれぞれのパートで示される実践に努力することも大事なことであると思います。

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