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聖者の生涯「ナーロー」④(4)

◎究極の実在の無起源性

 はい、で、ちょっとこの個別の話が入ってきますが、ここでの問題はまず死体っていうのがありますね。そしてその死体から腹を切り裂き、腸を出してると。
 このイメージっていうか、この現象が何を現わしてるのかっていうのは、実際には複合的な意味があると思います。つまり単純にね、「はい、これはナーローの心の現われですよ」っていう一つの意味ではなくて、さまざまな複合的な意味を現わしてると考えてください。で、そのうちのいくつかを言いますね。
 一つはこの詞章との関係でまず――

『無所縁(心が働きかける対象がない)の領域において
 輪廻の束縛を
 究極の実在の無起源性によって
 断ち切らないのであれば』

っていう詞章が続いてるね。これと、この死体から腸を引き抜き細かく切り刻むっていう現象は、同じというかリンクすると考えられますね。
 つまり何を言ってるのかっていうと、この死体が現わしているものっていうのは、実際には二つ考えられます。一つは、まさにここにある無所縁、心が働きかける領域がないといわれるものです。
 つまり何を言ってるのかっていうと、無所縁――所縁っていうのはちょっと難しい仏教語だけども、対象みたいなものですね。つまりさっきから言ってる話にも繋がりますけども、実はこの世界には、一切対象はないと。でも対象がないっていうことは主体もないんだけどね。だから主体も客体も実際はない。しかしわれわれは、それがあるような錯覚をしている。
 で、この実際はなんの対象もないっていうこと自体が、一つはこの死体によって現わされてる。
 しかし何の対象もないのに、われわれは縛られてしまってるんだね。実際はどこにも何も存在しないのに、われわれは縛られてしまってる。よって、その縛ってる紐みたいなのを、断ち切らなきゃいけない。それが、この現象としてはね、刃物でこう切り刻んでるわけだけど、そうじゃなくて究極の実在の無期限性によって断ち切ると。ね。
 この「究極の実在の無起源性」っていうのは、これは言葉にするしかないので、こういう感じになっちゃうんですけども――つまり起源のない、あるいは始まることのない究極の実在っていうかな。まあこれは空性の悟りといってもいいんだけど。つまり空性の悟りを磨いて、それによって何の実体もないのにわたしを縛り付けているこの輪廻の鎖みたいなものを断ち切らなきゃいけませんよ、というのが一つのメッセージだね。

◎裏の意味

 もう一つ、裏の意味があります。もう一つ裏の意味っていうのは――なぜナーローはこのようなヴィジョンの経験をしなきゃいけなかったのか? ナーローがここで問題とされている、ナーローの心のけがれっていうのは一体何なのか?――それがこの死体というアイテムによって現わされています。それは何なのかというと、死体というのはもちろんもう死んでいます。死んでいるっていうのはつまり、過去のものです。過去のもの。つまり、われわれをこの輪廻という、本当は何もないはずのものに縛り付けている大いなる要因は、すべて「過ぎ去った経験」なんだね。それはもうすべて終わってる。
 これはさ、小さな例えではみなさんよく分かると思うんだよね。小さな例えっていうのは、例えばT君がちょっとこう何かいいことやってね、いいことっていうか何かあることを達成して、みんなから褒められたとするね。みんなに大称賛を受けたと。「わあ、すごいね!」――で、T君がすごい慢心に陥ったとするよ。「おれはすごいなあ!」と。で、その日が終わって、次の日はまた別のいろんな出来事が起きるわけだけど、T君はその昨日の褒められたっていうことにずっと執着してると。それによって慢心が高まり、真実が見えなくなる。「あれ? T君、なんか今、真実が見えてませんね」と。「何でですか?」「いやあ、昨日みんなから褒められちゃったんで、ちょっと慢心が出てしまった」と。ね。「でもそれ、昨日のことでしょ?」と。ね。
 全部そうなんだね。例えば小さいころにこういうふうに意地悪されたんで、こういうことがすごく嫌いになるとかね、いろいろあるよね。それはだって、全部過去のこと、過ぎ去ったこと。でも考えてみたらわれわれは、すべて過ぎ去ったことに縛られまくってるんだね。
 ナーローの場合は、この時点でインド一の大学者っていう地位を捨てて、グル探しに出かけてるわけだけども、ここでナーローがこのようなヴィジョンを見たっていう背景には、実際にはまだ完璧にナーローが過去の幻影というかな、過去のとらわれっていうものを、おそらく捨てきれられていなかったんではないかといわれています。
 つまりどういうことかというと、わたしは偉大な――ナーローって王族の出身といわれてるんですけども――偉大な王族の息子であって、で、わたしは多くの誰もかなわないほどの仏教の教えの理解があり、そしてインド一といわれる学者の地位にわたしはあったんだと。で、それを捨てて今、より高いものを与えてくれるグル探しに出かけてるっていう、すごくこう過去の積み上げてきた自分のアイデンティティみたいなものにね、それにまだものすごくとらわれてる。もちろん表面上は捨ててるわけですよ。それはもう素晴らしいわけだよね、つまり真の悟りを与えてくれる師匠を探すために、大学の地位をすべて捨てると。これは素晴らしいよね。その行為は素晴らしいんだけど、でも心はまだそのようなアイデンティティを大事にしてる。それはいろんな端々のナーローの発言とか態度で分かるんだね。つまり、わたしは偉大な学者なんだから、そういうやり方はできないとかね。そういうちょっとプライドを持ちつつ師匠探しを続けるわけだね。
 それはだから何度も言うように、われわれのレベルからすると、もう本当に薄いちょっとした最後に残ったようなプライドなのかもしれないけども、そのようなまだ過去を引きずってるような――つまりそれはもう死体なのに、死んでいる過去のものなのに、それにものすごい縛られてる状態があったのかもしれない。これがこの表現だね。一切は、ね、何度も言っているように、実体がないんですよ。一切は過去の幻ですよ。ね。いってみれば夢みたいなものだね、いつも言うようにね。
 輪廻っていうのは、輪廻っていうかわれわれが今経験してるこの世界っていうのは、すべて夢です。夢みたいなものです。つまり夢っていうのは、過去の経験からくる幻影みたいなものだよね。つまり、起きてるときに例えばハイキングに行って山で楽しく遊んだりしたと。そうするとその経験によって、その夜またハイキングの夢を見るかもしれない。でもそれは実体がないっていうか、単なる過去の経験を引きずってることにすぎないよね。で、これと全く同じなのが、このわれわれの現実といわれてる世界もすべてそうなんだと。われわれが過去を引きずって現われた幻影だと。

◎経験に引きずられる無智

 で、問題は、この過去を引きずって現われた幻影であるこの世界で、またわれわれはいろんな経験をするわけだね。それがまた新たな原因となって、また次の夢を見だしてしまう。この繰り返しにすぎない。ね。すべては過去の幻影ですよ。じゃあ過去の幻影を取り払ったら何があるんですか?――そこには何もない。何もないっていうか、もちろんヒンドゥ的な言い方をしたら真我しかない。ね。真の自分っていうかな。仏教的にいったら、心の本性といわれる光り輝く唯一の実体しかない。
 この「唯一の実体」っていうのは、便宜上「唯一の実体」っていう言葉を与えるしかないんで与えてるだけで、実際にはわれわれが頭で、今の概念で理解できるものではない。でも一応そういう表現をしないとしょうがないっていうだけなんだけどね。実際にはそのような概念とかでとらえられる世界っていうのは、一切存在しないと。すべては過去の記憶っていうかな、過去の経験によって縛られているだけなんだと。それを、「すべては実体がないのである」っていう刃物によってスパスパとこう切り刻んでいかなきゃいけない。
 これはみなさんに当てはめて言うと、みなさんが修行をしていく中でね、神からのそういった恐らく仕掛けが来ることがあるかもしれません。つまり、自分の過去の経験からくる――まあだいたいそうだけどね。過去の経験からくるいろんなプライドを掻き立てられたり、あるいは逆にすごく嫌悪が出たりとか、いろんな現象が起きると。で、それを、「いや、そこでわたしが今慢心を持ったり、嫌悪してしまうのは、単に過去の経験に引きずられているだけである」と。「それはすべてもう意味がない」と。全く意味がない。ね。人間っていうのは過去の経験に引きずられるがゆえに、目の前のものをありのままに見ることができない。ね。そういう経験ってみなさんもあるでしょ? 
 まあ、ちょっとこういう話っていうのはなかなか例えをあげづらいので、分かりやすい例えで言うけども。そうですね、例えばある会社の部長がいるとして、その部長が過去の経験でね、過去の経験っていうのはいろんな部下との付き合いによって、すごく好き嫌いがあったとするよ。たとえばこの部下は自分にいろいろ尽くしてくれて、いろいろ何か過去に貢物をしたりとかね(笑)、いろいろやってきたから、「こいつはいい奴だ」と。「こいつはおれは目をかけている」と。で、もう一人の部下はすごく自分に反発したりとかね、いろいろしてくるから、「こいつはあまりもう好きじゃないな」みたいに思ってたとするよ。でもまあそれはそれで仕事は別だって頭では考えてたとするよ。はい、あるとき、その嫌いな方の部下が――じゃあその好きな方の部下をAさんとして、嫌いな方をBさんとしたら――嫌いな方のBさんがある企画をあげてきたと。でもそれを何かの手違いでAさんからあがってきたと勘違いしたとするよ。で、その企画が素晴らしいものだったとするよ。で、それに目を通したときに「これはすごい」と。「これをやればこの会社は発展する」と。「さすがAだ!」と思ったとするよ。で、その直後に、「あ、それBさんでした」ってなったときにその部長は、「あ、Bだったの?」って思ってもう一回見直す。そうすると、「やっぱこれ穴があるな」と(笑)。
 ここで言いたいのは、明確に「おれはBが嫌いだからこれはやらない」って言ってるんじゃないんです。本当にそう思っちゃってるんです。本当にBだって分かった途端に穴が見えてきて、「はい、こんなのはもう論外だ」ってなっちゃうんだね(笑)。これが、経験に引きずられるわれわれの無智。
 つまりこれは一つの会社のたとえなわけだけど、このような部長がいる限りこの会社は発展しない。つまり経験に引きずられる部長ね(笑)。これちょっと極端な話だけども、経験に引きずられずに、その人が好きであろうが嫌いであろうが、冷静な目でその企画の妥当性を考えてね、本当にそれが会社のためになるかどうかを判断しなきゃいけないわけだよね。その会社の話でいったらね。
 それと同じことがわれわれの人生においてもいえるわけだね。本当の意味でわれわれの魂にとって、何が本当の意味での利益があり、何が不利益であるのかっていうのを、われわれは分からなくなってしまってる。すべてもう本当に、過去の経験によって判断するようになっちゃってる。で、そこでわれわれがラッキーだったのは、ね、ここにいるみなさんがラッキーなのは、教えに出合ってると。教えっていうのは、過去の経験関係なく一つの指針を与えるわけだね。教えっていうのは、過去の経験が関係ない。つまり過去の経験からいうと、わたしはここでこういう態度をとってしまいたいが、でも教えではそれはいけないって書いてある。教えではこういうときはこう考えなきゃいけないって書いてある。よって、過去の経験とか関係なく教えに自分を合わせる作業、これがわれわれの修行のスタートなわけですね。

◎すべての過去からの解脱

 さあ、教えに自分を合わせようと。合わせようと。で、そこで核心にせまってくると、当然すごい葛藤が起きるわけだね。ちょっとしたことなら教え通り生きられるけど、本当にもう――例えばですよ、この中にはそういう人はいないかもしれないけど、実際よく聞く話としてね、「先生、実はこういうことがあって、この人に裏切られて本当に許せないんです」と。「本当にもう、彼を許すなんてことはもうあり得ない」と。でも実はこれはちょっととても嬉しい話なんけど、これはちょっと誰とは言わないけどね、ある人が――ある人ってこのカイラスの生徒さんの一人ですけどね、今言ったようなことをずーっと言ってる人がいてね、ずっと言ってるっていうのは、実は過去にものすごいひどい目にあったことがあって、「その人はもう絶対許せない」ってずっと言ってて、でもちょっとこの話するとだんだん誰か分かってくるかもしれないけど(笑)、その人の素晴しいところは、そんなにね、もう本当に「先生が言ってる、自分に害を与えたものを愛せとかね、全くもうぼく理解できないんです!」とか言ってるんだけど、でも「わたし毎日『入菩提行論』読んでる」とかね、「毎日『心の訓練』を読んで、理解できないけど頑張ってるんです」とか言ってるんだね。つまりそれは非常に縁があるんだね。つまり頭では全く『入菩提行論』で説かれてるような「敵を愛せ」とかね、全く理解できない。しかし、毎日読んでるんです。つまりもう完全に縁がある、真理の法とね。
 で、この間その人が――そうですね、そういうことを言っててもう一年以上は経ってたんだけど、この間来て、「先生、実はこの間ふと、初めて、許そうかなと思いました」と言ってきたんだね。これは素晴らしいことで、つまりそれがカルマに教えが打ち勝った瞬間ですね。これはだからその人はもともと教えとの縁があって、頭では理解できない、表面的には理解できないんだけど、この教え――例えば『入菩提行論』というのは素晴しい秘儀だよと。あなたの心に真の利益を与えるカギだよっていうのを、おそらくうっすらと潜在意識が理解してたんでしょう。だから例えば毎日それを読むと。で、それによって、もちろん時間はかかったけども、大いなるカルマの転換が起きたわけだね。
 だって「絶対許せない」から今は「許そうかな」って、それは非常に大きいというかな。そういった葛藤を通り抜けて教えをとったときに初めて、さっきから言ってる例えで言うとね、自分を縛り付けてた輪廻の幻影の紐みたいなものが一つバラっと切れるわけだね。
 で、こういうのをわれわれはいっぱい持ってるわけです。いろんな過去の幻影に縛り付けられてる。だから、すべての過去から、われわれは解脱しないといけない。だから赤ちゃんじゃなきゃいけない(笑)、言ってみればね。過去関係ないんです。
 これは一つの理想――あの、今すぐそうなれるっていうことはないけども、一つの理想のイメージとして言いますよ。理想のイメージとしていうと、みなさんは、今生まれたばかりの赤ちゃんです。ね。過去一切関係がないんです。表面的な責任とかは、ちゃんと果たさなきゃいけないよ。仕事ほっぽらかして、「わたしは過去関係がない」とか言ってたら(笑)、単に会社に迷惑かけるだけだからね。それは駄目ですよ。そうじゃなくて、感情的な問題っていうかな、精神的な問題としては、一切過去は関係がない。「それ一体なんですか? 何のことですか?」と。

◎一切にこだわらない

 もうすべてが――これはね、これは実は瞬間瞬間やるのが理想なんです。今パッと生まれたばかりの赤ちゃんですと。で、次の瞬間にまた生まれてる。つまり一瞬一瞬わたしは新生してると。決して古くなることがないっていうかな。これは心の問題でですよ。だから決して引きずらない。
 引きずらないっていうのは、例えば誰かがね、わたしにバーッて意地悪なことしてきたとしても、一瞬後にはもう忘れている。忘れてるっていうか、頭では覚えてたとしても、心は全く引きずられないっていうかな。だから当然正しい判断ができるわけだね。これがまあ理想といえば理想です。
 ただし、それはもちろん無理です。すぐには――っていうのは、瞬間瞬間新しくなれないどころか、もう何十年も前の――まさに死体だけどね――古い過去の幻影に縛られ続けてるんだね。もっといえば過去生から、生まれる前からの幻影にわれわれはもうがんじがらめになってるんだね。だからそういったものを一つ一つ断ち切っていかなきゃいけないんだね。
 で、もう一回言うと、修行者っていうのはね――もちろん修行者じゃない人もそうなんだけど――特に修行者にとっては、毎瞬毎瞬、一瞬一瞬がリスタートなんだね。つまり一瞬一瞬、はい、また今から始まりますと。今から始まりますと。連続なんだね。
 だから決して、前に何かにも書いたけども、手遅れっていうのはあり得ない。よく言葉として使うけどね。「わたしはもう手遅れです」とか(笑)。「わたしはもう終わった」とか(笑)。そういう言葉ってあるけども、それはあり得ないんだね。終われないから(笑)。終われないし、遅れもないっていうか。常に新しく始まってるからね。そういう意識を常に持ってたらいいね。
 また別の言い方すると、つまり、こだわらないっていうことです。一切こだわらない。自分のこともそうだし、他人のことも含めてね。例えば自分が過去にこういう失敗をしてしまったとか、あるいは逆にこういう成功をしたんだとか、一切こだわらない。一瞬一瞬、新たな気持ちで現象にぶち当たると。あるいは他人に対しても、この人は昨日こういうことをしたとか、あるいはこういうことをやってくれたとか、そういうことに一切こだわらない。もちろんこだわらないで無関心になるっていう意味じゃなくて、そこにおいてね、いつも言う四無量心とか菩提心を発揮しなきゃいけないわけだけど、他人に対してはね。こだわらずにただみんなの幸福を願うと。「やあ、みんなが幸福であればいいじゃないか」という気持ちだけを持ち続けて、誰かが自分に何かしたとか、あるいは自分が過去にこういう目にあったとか、そういうことには一切こだわらないと。これは一つの実践的なメリットのある考え方だね。

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