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瞬間の躊躇

 瞬間の躊躇が、取り返しのつかないことになり、敗北につながるということは、武術やスポーツの世界では、よくあることだ。

 同様に、神への、神への誠実さへの、瞬間の躊躇が、取り返しのつかないことになることがある。
 「取り返しのつかない」というと言い過ぎかも知れないので、
 「大いなる損失」と言っておこう。

 だから、潔さと、
 誠実さと、
 こだわりのなさと、
 即、そっちを取れるサットヴァ性
 これらを普段から考え、訓練する必要がある。

 逆に、こういうことの邪魔になるのが、いわゆる動物的なカルマだ。
 これは性的修習とも結びついている。
 邪淫などの性的なけがれ、あるいは邪淫でなくても多すぎる性的な修習は、こういう失敗をする遠因にもなる。

 だからラーマクリシュナも言うように、神の道を行く者は、邪淫をしないのはもちろん、可能ならば禁欲したほうがいい。

 禁欲し、性的な清浄さが保たれ、綺麗なエネルギーで体が満ちてくると、
 堂々とするようになる。
 自分を守るような「堂々」ではなく、内側の充実から来る、開けっぴろげの心の安定、堂々とした心の状態になる。

 もちろん問題は性的なことだけではないが、性的なカルマの多い人や、動物的傾向が強い人(情報に弱い、強い者にまかれる、怠惰、すぐ逃げる、など)が、こういう失敗をしやすいのは確かだ。

 だからそういう傾向のある人は、しっかりと懺悔をし続け、心の変容と安定を試みるべきだ。

 そして、話は戻るが、

 神への誠実さの「瞬間の躊躇」は大いなる損失だ。
 それは、損失しても、損失しているということに本人は気づかない。
 だから常に、隙なく、誠実であれ。
 一瞬も躊躇するな。
 「矢でも鉄砲でも持ってこい」というような気持ちで、一日一生の心持ちで、気をつけて日々を生きましょう。  
 といっても、いつも固くなっている必要はないよ。いつも心は柔らかく、笑顔で。
 しかし、たとえばサムライが、いつ死んでもいいように、毎朝清浄な衣を着ていくように、そして平和なときでも毎日刀を研いで腰に差しておくように、そのようにしていなさい、ということだ。

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