yoga school kailas

真髄に達しなさい


◎真髄に達しなさい

【本文】
『知性が迷妄の密林から脱け出たなら、いままで聞かされてきたこととこれから聞くであろうことの全てから超然として、惑わされることはない。

 君の心が、聖典の美辞麗句に決して惑わされず、自己の本性にしっかりと向けられたなら、君は必ずや真我を実現し、至聖(神)のもとへと到達する。』と。

 はい。これも読んだとおりですが、これもしっかりと瞑想したらいいと思いますね。そうですね、これも繰り返しですが、同じことですね。もちろんわれわれが聖典を学ぶことは素晴らしいことなんだけど、それははっきり言って言葉に過ぎないので、例えばさっきも言ったように、仏教やヨーガの経典に書かれている素晴らしい言葉を何回みんなの前で言おうとも、その人がそれを実践していなかったら、全く意味がない。それは本人も、自分としても同じだし、そういう例えば偉そうな人がいたとしても、その人が例えばどれだけ経典を知ってるかとか、そういうことはあまり意味がない。
 だから例えば、惑わされるっていうのは、「私はこの経典を知っている」と。あるいは「表面的なその教えを理解しているような気がする」と。それで、「私はもうこの修行をした」とか、「神の意思を到達した」とかいうのが、大きな罠なんだね。じゃなくて、真髄に達しなさいと。そのための努力をしなさいというところだね。だからこれはあらゆる修行、あるいは宗教の世界において言えることだね。

◎超越意識の人

【本文】
『アルジュナが問います。「おお、ケーシャヴァ(クリシュナ)様!真の知識を獲得し三昧の境地に入った人は、どんな特徴をもち、いったいどのような言葉を語り、どのように座り、どのように歩くのでしょうか?」と。

 至高者が答えられます。「プリター妃の息子(アルジュナ)よ!人が心の中の欲望をことごとく捨て去り、自己の本性(真我)にのみ満足した時、その人は真の知識を獲得した超越意識の人と呼ばれる。

 苦難に遭っても心乱さず、快楽を追うこともなく、執着と恐れと怒りを己の心から完全に捨てさった人こそ、真の知識を獲得した聖者(ムニ)と呼ばれるのだ。

 悪を見ても嫌悪せず、善を見ても愛慕せず、好悪の感情を超えた人こそが、完全智識(プラジュニャー)(=般若の智慧)を得た人なのである。』

 はい。プラジュニャーと出てきましたが、さっきも言ったように、般若経って言うのがプラジュニャー・パーラミターって言うんだけど。結局同じことを追求しようとしているんだね。仏教、大乗仏教が行こうとした境地と――つまり善悪、あるいは良い悪い、苦しみ喜び、こういったものを超えた完全覚醒の唯一の真理の状態があります。で、その状態に達している人。これこそが最高のサマーディに入った賢者、智慧ある人ってことだね。
 だからこれはもちろん、一つの目的っていうか、われわれが目指すべきところだね。すぐにこの状態にわれわれが入れるわけじゃないけども、普段からそのようなことを頭に置いといて生きるといいと思いますね。
 これはもう本当に、一つの真理についていろんな角度からぱっぱっぱっと言っているので、ね、だんだん分かってきたと思う。

◎至高者を見ることで

【本文】
『亀が全身を甲羅の中に引っ込めて身を守るように、眼・耳・鼻・舌・身のあらゆる対象から自分の感覚を完全に遮断できる人こそ、完全智識(プラジュニャー)に安住する人と言えるのだ。

 禁欲をする人にとって、確かに快楽の対象はなくなるであろうが、それを求める気持ちは依然として残るであろう。しかし至高者を見ることで、その気持ちすら消えてしまうのだ。

 クンティー妃の息子(アルジュナ)よ!人の感覚の欲求は抑えることが難しく、まことに強烈であって、時には賢者の心すら奪い去ってしまうことがある。

 それ故、肉体のあらゆる感覚を制御し、意識を至高者としての私(最高神としてのクリシュナ)に集中させよ。こうして己の感覚を完全に制御できた時、その人の真理に関する知識は不動のものとなる。』

 はい。これはラーマクリシュナが「その人の心に、ほんのちょっとでも金と女に対する――まあ、これは男に言っているわけだから、女なんだけど――女に対する思いがあるうちは、神は悟れない」と言っていますが、当然この世のさまざまなものに対する感覚的な欲望があるうちは、われわれは――つまりそれは両てんびんは出来ない。この世の快楽にも執着し、神を悟るってことはあり得ない。
 よって、修行者っていうのは禁欲に入るわけだけど。ただここで言っていることっていうのは、単純に禁欲した場合、つまり単純に欲望の対象を見ないと。接さないと。このやり方を採った場合、それはその状況ではいいだろうけど、それを求めてる気持ちっていうのは眠っているだけで、実は心の奥にふつふつとあるじゃないかと。だからそういうやり方ではなくて、とにかく神に対して心を向けよと――ここで言っているのは、クリシュナ。自分のことをいっているんだけど、もちろんこれは仏陀でもいい。あるいは自分の好きな聖者でもいい。あるいは自分の生きた師匠でもいい。それに対して一心にただ心を向けなさいと。
 これはだから、非常にチベット密教的な発想でもある。徹底的に唯一の対象に対して心を集中させて、それしか自分にはない、みたいな状態になれば、もう性欲とか、食欲とか、その他の感覚的ものっていうのは消え去るんだね。そこに没入するっていうか、そんな低い次元のものっていうのは、何も働かない状態になってしまう。その道を説いてる。これはまさにバクティ・ヨーガの世界です。

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