yoga school kailas

行為そのものに没頭せよ

◎行為そのものに没頭せよ

【本文】
『ダナンジャヤ(アルジュナ)よ!義務を忠実に遂行せよ。そして成功と失敗とに関するあらゆる執着を捨てよ。
 このような心の平静さをヨーガを言うのだ。

 ダナンジャヤ(アルジュナ)よ!果報を期待しつつやる仕事は、それを期待せずにやる仕事よりもはるかに劣る。 故に、いかなる仕事も神への奉仕の精神(無欲)でやるがよい。果報を期待して働く者は、まことに哀れな存在である。

 神にすべてを一任し、果報を考えずに仕事をする人は、現世(この世)において善悪の因果から解放されよう。
 故に、神に奉仕し、ヨーガに励むがよい。それこそが、あらゆる仕事をする際の秘訣なのだ。

 知性が真理(神)と合一した賢者は、行為の結果を捨てることによって生と死の束縛から解放され(物質世界(この世)に再生せず)、無憂の境地に達するのである。

 はい。結局カルマ・ヨーガの真髄っていうのはこういうところにあります。
 カルマ・ヨーガって、その人がもし100%カルマ・ヨーガを実践できるのであればですよ、一切、呼吸法や瞑想をせずに悟れるんです。普通の暮らしを送りながら、全く、仕事もそうだし日々のいろんな出来事もそうだけど、あらゆることに対して期待をかけず、不安を持たず、後悔もせず、つまりそういった二元的なものに一切とらわれずに、ただカルマによって生じたなすべきことを、淡々と受け入れなし続けると。これができるなら、悟ってしまうんです。
 でも無理だと。嫌なことされたら頭くると(笑)。失敗したら悲しいと。あ、そんなんじゃ駄目ですねと。まず呼吸法やって心を落ち着けてくださいと。そいういうそのいろんな補助的なのが始まってくるんだね。だからどこにこう、重点を置くかなんだけど、そういったその実生活を通じてのカルマの浄化に重点を置こうとしている。
 なぜ普通はカルマが終わらないかというと、すべてはカルマなんだけど――例えば、この空間で起きていること、すべてカルマです。今Tさんがくしゃみしました。これもカルマです。われわれがこのくしゃみを聞かなきゃいけなかったのもカルマです。あるいはこの部屋の気温もカルマです。で、みなさんの中に今、いろんな思いがあるかもしれない。それも全部カルマです。全部カルマ。もう例外一切ない。
 で、このカルマっていうのは過去にやったことだから、それが生じては消えるんだけど、ここで心を動かすからまた新たなカルマが発動するわけです。あるいは心だけならいいけど、口に出したり行動することによって、また新たなカルマが発生する。
 カルマに則ったというか、自分のカルマを浄化するための活動ならいいんだよ。じゃなくて、それに反するような活動をしてしまう。あるいはカルマをより増加させるような活動とか、心の働きをしてしまうから、全く終わらない。
 で、その根本にあるのが、ずーっと言っている、果報を考えること。これなんだと。これによってカルマは終わらないんだと。
 つまり一切の果報を考えずに、その行為そのものに没頭せよっていう教えだね、カルマ・ヨーガっていうのは。
 例えば、小さなことでもいいんだけどね、「こういうことやったらあの人にこういうふうに感謝されるかな」とか。そういう思いでやって、相手が何も言ってくれなかったら、「何、あの人の態度は」って怒りが出る。これでまた新たなカルマスタートと(笑)。ね。この繰り返しなんだね。
 例えばそこで、その人に何かやってあげるのも自分のカルマだし。そこで全く相手に相手にされなかった場合。これもカルマだと。それはそれとして全く心を動かさずに、次に進まなきゃいけない。これによってこの人の、人から無視されるっていうカルマが浄化されるわけだね。で、これをひたすら続けて、ただ神だけに心を合わせてると、生死の束縛から解放され、つまり解脱し、無憂の境地――つまり、一切の喜んだり苦しんだりするような二元の意識状態から解放されますよと。カルマ・ヨーガの真髄ですね。
 はい、ここのところ何か質問等ありますか?

◎あらゆることに期待をかけない

(K)この「神にすべてを一任し、果報を考えずに仕事をする人は」の「仕事」って……

 もちろんこれは「行為」のことです。だってこれはクリシュナがアルジュナに、具体的な問題としては、さあ戦うかどうかってところに対して説いていることだから。別にこの世のね、職業のことをいっているわけではない。
 あの、よく「行ない」のことを、日本語に訳すときに「仕事」って訳すんだね。八正道もそうだけど、八正道で「正業」っていう教えがあって。これはよく日本の本とか見ると、「正しく仕事をする」とか書いてあって(笑)、「え? 正しく会社にいくことかな?」とか思って。私最初、そう思ったんです。昔、学生の時に、八正道とかいって「正しい仕事」とか書いてあるから(笑)、八正道って正しく仕事をすることなのかなと思ったら――いろいろ原語を調べたら「カルマ」。つまり「行動」なんだね、単純に。正しい行動のこと。それをよく仕事とか訳したりする。これもそういうことだと思うけどね。自分に与えられた仕事――仕事っていうのは、職業って意味じゃなくて。使命に応じてやるべきこと――ってことだね。
 だから全部そうなんですよ。例えばですよ、トイレ行きたくなったと、これもカルマです。そうしたら、当然トイレに行くのが、そのときは仕事なわけです。トイレいったら入ってたと(笑)。これでも別に心を動かすなと。つまり、カルマに応じて自然にね、私はトイレに行くべき時であると。行ったら入っていたと。「どういうことだ!」と、こんなこと考えちゃいけない(笑)。入っていたら入っていたでいいじゃないかと。それでどんどんカルマを浄化するっていうか。
 あらゆることに期待をかけずに、神から与えられた状態を――例えばみなさんが大事なことをやろうと思ってたら、いきなり腹痛が襲ってきたと。これもはっきり言えば、神の意思なんです。そこで例えば耐えて、例えばトイレに行ったら入ってたと。耐えてなにかやらなきゃいけないことも、自分のカルマの浄化に必要な神の意思なんだと。そういう小さなことすべて一つ一つ含めて、そうなんだね。それはちょっと間違わないようにしなければいけない。
 つまり大きな一つの仕事っていうふうにとらえちゃうと、「そうか」と。「この仕事をするのが私の修行なんだな」ってとらえてしまう。だから例えば、それに対しては神の意思だと思っていたとしても、それを実行する上での日々のいろんな出来事に対して心を動かしまくってたら、全然カルマ・ヨーガにならないんだね。全部なんです。あらゆることに対して期待をかけない。果報を期待しない。で、全力を尽くして、やるべきことをやると。
 だから例えば、「K君、お茶いれるの手伝って」って言われたら、もう最大の慈愛を込めて全力を尽くして意識を集中して、お茶をいれなければいけないと。あ、これは仏陀や神から与えられた徳を積むチャンスをもらったんだと。それが神の意思だと――っていれてたら、Tさんが「やっぱりいらないわ、K君」とか言われたとしても、「何? 何、その気まぐれ?」とか言っちゃいけない。「わかりました」と(笑)。これで私のカルマが浄化されると。

(K)例えばですけど、お茶をついでって言われたことに心を動かさないっていう、そういう意味も……

 そうだね。ここで言っていることっていうのは、最高哲学を言っているから。だからこの本は、最後の答えを言っています。でも実際的に使えるものは、さっき言ったシャーンティデーヴァのものとか、仏教のいろんな教えに多いと思う。
 最高はそうなんだけど、現実的にはこういう考え方をしたほうが修行が進むよっていうのは、『入菩提行論』とかにたくさん説かれてる。例えば今の話で言ったら、喜覚支っていうのがそう。例えばそこで「いや、心を動かさない。お茶をいれてくれって言われたけども、それに対しては喜びもせず嫌がりもせずいれる」っていうのは、正しいんだけど、でもそこでね、そうじゃなくて「徳が積めてうれしい」と。「いやー、嬉しいな」と。「私は本当にこういう徳を積みたかったんだ」ってわざと思ったほうが、よりその人の徳の性質っていうのは増すんです。最終的には徳も超えなきゃいけないんだけど、途中まではそういう二元的なものを利用した修行も必要なんだね。
 だからここで説かれている最終的な教え――だからバガヴァッド・ギーターってどちらかというと大乗仏教的な智慧の教え、つまり般若経的な教えに近いと思う。般若経って、みんなさんがよく知っている般若心経だけじゃなくて、プラジュニャー・パーラミターっていって、その般若経群ってたくさんあるんだけど、ここでいっているのは最後の答えばっかりを言っているんです。全ては実体がないと。全ては、本質っていうのは空だと。徹底的に言ってるんだけど、あれだけ見ても悟れない。空は分かったけど、どうするの?っていう話があって(笑)。
 だから実践面で一番いいのは『入菩提行論』が一番いいと思うんだけど。あるいは『虹の階梯』とかもそうだけど。ああいう感じで、現実的にはじゃあどういうプログラムを採っていけばいいんですかっていう別の教えが必要なんだね。
 もちろんその本質的な教えっていうのは、忘れちゃいけない。だからそれは仏教でいうところの般若的な智慧の教え、あるいはこのバガヴァッド・ギーターの教えとかもそうだけど。そういったものを心に留めつつ、実際はいろんなことをやらなきゃいけない。
 だから柔軟な思考を持ってなきゃいけない。だから「先生こう言ったから、こう考えたんですけど、こうなりましたよ」とかじゃなくて、例えば今の話でいったら、お茶いれてくれって言われたと。それに対しては喜べばいいです。喜ぶっていうのは、プライドとかじゃなくて、私はこれで徳が積めるっていう喜び。「ああ、よかったよかった」って喜ぶけど、いれなくていいよって言われた時には、心を止めるんです。そこで、さっきの喜びが残ってると、「徳が積めると思ったのに、駄目なの?」ってなるけど、これは駄目なんです。逆に浄化されて素晴らしいと喜んだらいいと思います。
 だからバクティ・ヨーガっていうのは、仏教的なバクティ・ヨーガ的な発想でいうと、心を止めるっていうよりは、全て喜べっていう発想になる。いろんなところに喜びを見出すんです。お茶入れてくれって言われたら、徳が積めると喜ぶと。やっぱりいれなくていいって言われたら、自分の期待を裏切られるっていうカルマが浄化されたと思って喜ぶ。全力でいろんなことにぶち当たって、そこで生じることに対して全て喜ぶと。これはちょっと積極的なバクティ・ヨーガのやり方だね。はい。ここで書かれているのはもうちょっと真髄的な部分なので、喜びも悲しみもするなという言い方をしている。

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