真理の道の上の自我
エゴの屈折した専制に終わりをもたらすために、私たちは精神と霊性の道を歩むのである。だが、自我の術策は数限りなく、あらゆる局面で、それから逃れようとする私たちの思いをくじき、ねじ曲げる。真理は単純であり、教えは極めて明快である。にもかかわらず、人が真理と教えに触れて動き始めるや否や、自我は自分の存在が脅かされたことを知って、真理と教えを複雑でわかりにくいものに変えてしまう。そういう例を私は何度も深い悲しみをもって見てきた。
はじめ、人が精神と霊性の道とその可能性に魅せられると、自我はその人を励ます。「本当に素晴らしい。これこそ君にぴったりだ! この教えは全く道理にかなっているよ!」
やがて、瞑想修行をしてみたい、リトリートをしてみたいと人が望むようになると、自我は耳元で囁く。「素晴らしいアイデアだ! 私もご一緒しよう。共に学ぶところがあるかもしれないからね。」
精神的成長の蜜月期間、自我は励まし続ける。「これはすてきだ。本当にすごい。感官の息吹を浴びるようだ……」
だが、教えがその人の深いところに触れるようになると、どうしても人は自己の真実に直面しなければならなくなる。自我が暴かれ、触れられたくないところに触れられるようになる。するとさまざまな問題が起こってくる。目を背けることのできない鏡を目の前に突きつけられたようなものだ。透明な鏡。しかしそこには醜くゆがんだ顔があって、こちらをにらんでいる。自分の顔だ。それを見たくないために、人は反発し始める。怒りにかられ、鏡を粉々に打ち砕く。だが、同じ醜い顔が無数に散らばるだけ。その一つ一つがこちらをにらみ返している。
まさに人が激昂し、苦り切って不平を鳴らし始めるときだ。だが、そのとき自我はどこにいるのか? 忠義顔で脇に立ち、煽り立てているのである。「君の言うとおりだ。これはひどいよ。あんまりだ。もう我慢することはない!」
人が思わず耳を傾けると、自我はありとあらゆる疑いや不穏な感情を吹き込む。火に油を注ぐ。「これが君にふさわしい教えではないことがわかったかい? だから言っただろう。彼は君の師なんかではないんだよ。やっぱり君は知的な、現代的な、洗練された西洋人なんだ。エキゾチックな禅や、スーフィズム、瞑想、チベット仏教などというものは異質なもの、東洋の文化に過ぎない。千年も昔にヒマーラヤの山奥で生まれた哲学が、なんで君の役に立つだろう?」
人がますますその蜘蛛の糸にからめとられていくのを、エゴは上機嫌で眺めている。そして、教えに従って自己を知るために人がくぐってゆかねばならないあらゆる苦痛、孤独、様々な困難を、自我は非難し始める。
さらには師を非難する。「君がどんな目にあおうと、このグルは気にしちゃいないんだよ。ただ君を食い物にしているだけだ。”慈悲”だとか”敬信”だとかいった言葉を並べて、君を自分のもとにつなぎとめておこうとしているだけなんだ……」
自我はとても利口だ。教えを自分の都合のいいようにねじ曲げる。「悪魔は自分の都合のいいように聖書を引用できる」のである。
自我の最後の武器は、師とその門人たちを偽善者ぶって糾弾することだ。自我は言う。「ここには教えの真実にしたがって生きている者など一人もいないじゃないか!」
こうして自我は正義の審判官を演じ始める。抜け目なく、あらゆるものに目を光らせる。そうすることによって人の信念をなえさせ、精神的変容への意志と努力をむしばむのである。
だが、自我がどんなに精神と霊性の道を阻もうとしても、断固その道を歩み続け、瞑想行に深く入っていったなら、あなたは自分が今まで自我の約束に騙されていたことに、偽の希望と偽の恐怖に騙されていたことに気付くようになる。希望と恐怖がともに心の平安の敵であったことを、あなたは少しずつ理解し始める。希望に裏切られてむなしさと失意のうちに置き去りにされてきたことを、恐怖におびえて偽りの自己という独房に閉じこもってきたことを、理解し始める。さらには、エゴの不安定な揺らぎがいかに自分の心を左右してきたか、といったこともわかってくる。そして、瞑想によって開かれた自由な空間の中で、執着から一時解放されたとき、あなたは自らの心の本質の奮い立つような広大さを垣間見るのである。自我が、あくどいペテン師のように、内なる破綻をもたらすだけの非現実的な予定と計画と約束で、何年もの間あなたを騙していたことにあなたは気づく。瞑想の静けさの中でそれに気づいたとき、その事実から目をそらすことで自らを慰めようとせず、それを直視したとき、あらゆる予定と計画は空疎なものとなり、崩れていく。
――ソギャル・リンポチェ