yoga school kailas

 仏教論を曖昧に捉えている人の中で、よく、「解脱や悟りへの欲も、欲だから持ってはいけない」などと言う人がいます。
 おそらくこのような発想をする人は、解脱や悟りというものを、何か実体のあるものだと考えているのでしょう。そして「欲」という言葉にとらわれすぎなのではないかと思います。

 解脱とは、タンハー(渇愛、妄執)からの解放であり、また悟りとは、無明が晴れて悟りの明が明らかになることです。もちろん、もっと細かくいえばいろいろ検討できますが、簡単に言うとこういうことです。これがわかっていれば、上記のような曖昧な検討は出てこないと思います。

 しかしお釈迦様の時代も、同様の発想をする人がいたようで、ある外道の僧が、仏弟子アーナンダに対して、「欲によって欲を断ち切るというのは道理に合わないのではないか」という質問をしています。
 それに対してアーナンダは、こう答えています。
「ある荘園に行きたいという欲があったとして、実行し、実際にそこにいったとしたら、その欲は消える。
 同様に、阿羅漢になりたいという欲を持ち、精進し、実際に阿羅漢になったなら、その欲は消えるのです。」
と。なかなか簡潔ですね。まさにこの通りなのです。

 しかしこれだけだと少し伝わりにくいかもしれないので、私なりのたとえで言い直してみます。

 ここに覚せい剤中毒患者がいたとします。彼は薬が切れてくると、「覚せい剤を打ちたい」という欲が発生します。しかしそこで覚せい剤を打っても、薬が切れればまた打ちたくなるので、きりがありません。きりがないどころか、それはどんどん肉体や精神を蝕んでいきます。このような欲は否定されるべきであり、持つべきではない欲です。
 しかしこの人が、「私は覚せい剤中毒から解放されたい」という欲を持ったとします。そして努力し、実際に覚せい剤中毒から解放され、完治させたなら、もう「覚せい剤中毒から解放されたい」という欲を持つ必要はなくなるでしょう。もう解放されているのですから。
 だから同じ欲という言葉を使っていても、意味はぜんぜん違ってくるのです。

 同様に、我々は煩悩中毒患者といえます。そしてこの煩悩を満たしたいという欲は、満たせば満たすほどすぐにまた強い煩悩が出てくるので、きりがありません。きりがないどころか、どんどん魂や精神を蝕んでいきます。このような欲は否定されるべきであり、持つべきではないのです。
 しかしこの人が、「私は無明と煩悩から解放されたい」という欲を持ったとします。そして努力し、実際に無明を晴らして悟りを得、煩悩から解脱し、完成者となったなら、もう「無明と煩悩から解放されて解脱・悟りを得たい」という欲を持つ必要はなくなるのです。もう解放されているのですから。

 ところで、覚せい剤中毒から脱却しようとしたら、「私は脱却しようとも思わず、あるがままでいよう」などと言っていられるでしょうか。あるがままでいたら、どんどん症状はひどくなっていくでしょう。ここにおいては、並々ならぬ決意が必要なはずです。絶対に私は立ち直るぞという、強烈な欲求、決意が必要なのです。
 同様に、煩悩やカルマや無明から解脱しようとしたら、「私は解脱したいという欲も持たず、あるがままでいよう」などと言っていられないのです。あるがままでいたら、どんどん症状はひどくなっていくでしょう。ここにおいても、並々ならぬ決意が必要なのです。絶対に私は解脱し、悟るぞという、強烈な欲求、決意が必要なのです。

 ラーマクリシュナ・パラマハンサも、次のように言っています。

Q「どんな状態になれば、見神できるのでございますか?」
A「熱心になって、神を求めて泣けば見られる。
妻子のためなら人は水瓶いっぱいもの涙を流す。金のためなら涙の池で泳げるほども泣く。だが、神を求めて誰が泣いている? 本気になって神を呼ぶことだ。
心を込めて呼んでごらん
本気になって呼んでごらん
お前の泣き声聞いたなら
母は来ずにはいられない

心の底からあこがれて
真っ赤なバラとベルの葉に
愛の白檀混ぜ合わせ
神の御足にあげてごらん

熱心になる、ということは、夜明けの空が赤くなることだ。暁に続いて、お日様が姿をお見せになる。熱心の次が見神だ。
三つの引力を合わせて持つことができたら、あのお方は姿を見せてくださる。世間の人が仕事に対して感じる引力。母親が子供に対して感じる引力。妻が夫に対して感じる引力--この三つの引力を一緒に誰かが持ったとしたら、その強さで神を引きつけて、つかまえることができるよ!
つまり、こういうことだ。神に惚れろということだ。母親が子供たちを可愛がる。妻が夫を愛する。勤め人が会社の仕事を大事に思う。この三人の愛、この三つの引力をいっしょくたにして、そっくり神に差し上げることができたら、きっとあのお方に会える。
とにかく、夢中になってあのお方を呼ぶことが必要なのだ。猫の子はただみゃーみゃー啼いて母親を呼ぶことだけ知っている。母親が置いてくれる場所にいる。台所に置かれたり、地べたに置かれたり、時にはベッドの上に置かれたりする。困ったことが起きれば、ただみゃーみゃー啼いて母さんを呼ぶだけ。他には何も知らない。母猫はどこにいても、このみゃーみゃーという鳴き声を聞けばすぐに飛んできてくれる。」

 ラーマクリシュナの中心的教えはバクティ・ヨーガなので、この話でも神の見神ということがテーマになっていますが、解脱や悟りも同じことです。熱心な欲求・・・私たちが多くの煩悩に向けてきた、狂ったような熱心な欲求をすべて解脱や悟りに向けること。あるいは衆生への慈悲に向けること。それが第一歩なのです。

 もちろん、ゾクチェンやマハームドラーの教えなどの高度な教えでは、「あるがままであれ」とか「無努力」という教えがありますが、これらは意味が違います。このような高度な見解を、世俗のレベルに引きずり落としてはいけません。これらの意味を理解している人は、決して一般的な意味で、そういう言葉は使いません。マハームドラーやゾクチェンの師は、「あるがまま」とか「無努力」の教えを説きながら、実際は弟子に強烈な解脱への欲求と、あくなき努力を求めます。

 だからこの点に関して曖昧な理解をすべきではありません。たしかに「あるがまま」というのは一つのキーワードです。しかしそのキーワードを解き、その真意をものにするためには、相当な努力が必要なのです。それっぽいフィーリングとかでは駄目なのです。

 ですから、最近の仏教論好きな人や精神世界にありがちな、あいまいな「悟りへの欲も持つな」とか「努力しなくていいよ」なんて言葉に惑わされてはいけません。我々はそんな余裕がある魂ではないのですから。お釈迦様が言うように、「頭に火がついた男がその火を消すときのように努力せよ」、なのです。

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