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シュクセプ・ロチェン・チューニー・サンモの生涯


シュクセプ・ロチェン・チューニー・サンモの生涯
    1865-1953

 シュクセプ尼僧院のジェツン・ロチェン・チューニー・サンモは、チベット仏教の長い歴史の中でも抜きんでた女性の師の一人でした。

 彼女はラブジュン14世の木の牛の年(1865年)の第1番目の月の15日目に、レワルサル河のそばで生まれました。彼女が生まれたとき、大地が少し震動し、空からオーム・マニ・パドメー・フームという音が聞こえ、花の雨が見られました。また、同じ時間に家の召使いが女の子を生み、家の羊も子を生みました。彼女の父はチベット出身のトンドプ・ナムギャル、またの名はタンレク・タシ、彼女の母はブータン出身のペマ・ドルでした。彼女の両親はお互いがインドを巡礼しているときに出会いました。彼らはともに裕福な家庭の出身でしたが、インドへ行き、施しで生きる簡素な生活を送っていました。彼女の両親は彼女が生まれるとすぐに別れ、彼女は母とともに、物質的には貧困でしたが精神的には豊かな中で育ちました。子供の頃からジェツンは母や年長者をとても敬い、友人と調和し、ダルマを信仰し、あらゆる生き物に優しく、様々な奇跡に伴われ、豊かな智慧を有してました。

 
 チベットでは、死んでバルドの経験を通過し、様々な存在の世界やブッダの浄土を見て、それから長い日数を経て、再び生前の肉体に戻ってきた人が多くいました。その後、彼ら健康な生活を送り、彼らの経験した話を語りました。彼らはデロク、死からの帰還者と呼ばれました。ジェツンはカルマ・ワンジンとナンガ・オーブンのデロクの物語を読みました。それらを二度読むことによって、彼女はあらゆる言葉と意味を覚えました。

 ある夜、夢の中でジェツンは、デロクの女性がオーム・マニ・パドメー・フームを様々な魅惑的なメロディーで歌っているのを目にしました。そしてジェツンはともに歌い、彼女と同じようにうまく歌えるのに気づきました。目覚めた後も彼女はそのメロディーを覚えていて、それを歌い、彼女の友人たちを驚かせました。

 彼女は母とともに市場や定期市といった人の集まる場所を旅し、そこで天賦の才能に満ちた若い彼女は、朝から晩までデロクの物語を描いた絵を展示し、その物語を語り、様々なメロディーを奏でるその魅惑的な声でオーム・マニ・パドメー・フームを歌いました。彼女はどこに行っても群衆を魅了し、彼女の歌を聴いた者は、カルマの存在に対する信や、ダルマへの信仰を呼び起こされました。多くの者が自らの悪事を思い出して泣き、二度と悪業を行なわないと誓い、これからはダルマの修行に人生をすべて捧げると決意し、また惜しみなく布施をしました。

 
 13歳のとき、ロブサン・ドルマと名乗るアムド出身の尼僧の助言に従って、ジェツンと彼女の母はキィロン近くのオーカル・タクへ行き、尼僧の叔父でアムド出身のペマ・ギャツォ(別名チメ・ドルジェ、1829-1890)に会いました。ジェツンは、ペマ・ギャツォが自分とカルマ的に繋がりのあるラマだと分かりました。
 彼女はペマ・ギャツォからクンサン・ラマ・シャルン(クンサン・ラマの教え)とロンチェン・ニンティクのアビシェーカを受けました。そのラマは彼女にあらゆる教えを与えましたが、マルパがミラレーパにしたように彼女を厳しく扱いました。

 例えば、次のような話が伝えられています。

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 ロチェンは人々に人気があり、仲間の僧と一緒に托鉢に行くと、たちまちロチェンの鉢だけがお供物で一杯になった。これに嫉妬したある僧が、ペマ・ギャツォに嘘の告げ口をした。

「ロチェンは自分のことをヴァジュラヴァーラーヒーの生まれ変わりだと触れ回っては、たくさんのお布施をもらっているんですよ。」

 ペマ・ギャツォは何も言わずにこのラマを帰した。

 数日後、托鉢で得た多くの供物を師に捧げようとやってきたロチェンに対して、ペマ・ギャツォは突然怒り出し、こう言った。

「お前のような大嘘つきが持って来たものなど、私は受け取らないぞ。お前は自分のことをヴァジュラヴァーラーヒーの生まれ変わりだなどと言って触れ回っているそうだな。」

 ロチェンはこれを聞いて呆然としてしまった。彼女は自分のことをそんなふうに言った覚えはない。たしかに人々がそう噂しているのを聞いたことはあるが、そんなふうに言われても、ただ微笑でそれに答えてきただけだった。ロチェンが何も言えずに床に座り込んでいると、ペマ・ギャツォは怒りに震えて、彼女が持って来た供物の袋を地面に投げつけた。
 さらにペマ・ギャツォは、履いていた靴を脱ぎ捨てて、ロチェンに投げつけた。ロチェンはその靴を拾うと、それを自分の頭に載せて、「たとえどんなことがあろうとも、先生に対する尊敬の気持ちは変わりません」という気持ちを表わした。

 しかしこの日を境にして、ペマ・ギャツォのロチェンに対する態度は一変してしまった。彼はロチェンによそよそしい態度を示すようになった。他の弟子たちに重要な法を教えるときにも、わざとロチェンには用事を言いつけて、それに参加できないようにした。そして最後にはとうとうロチェンに、荷物をまとめてここから出て行くようにと命じたのである。ロチェンは寂しい気持ちを抱えて、荷物をまとめて尼僧寺をあとにした。

 ロチェンはこの出来事に深く傷つき、悩んだ。何度も自分のことを誤解している師に対する疑いや怒りがこみ上げてきた。しかしそのたびに、彼女はこう思った。

「先生は今、私の心をお試しになっているのだ。これで私が先生への信と尊敬を失ってしまったら、私は永遠にダルマとの結びつきをなくしてしまうだろう。私の心におごり高ぶりの気持ちが全くなかったといえるだろうか。小さい頃から私は、やれマチク・ラプドゥンの生まれ変わりだの何だの言われて、ちょっとはいい気持ちになっていたではないか。先生は、私の心に潜んでいるそういうプライドを、徹底的に消し去りなさいとおっしゃっているに違いない。先生が私の事を許してくれるまで、私は耐えなければならない。そうすればまた先生は私に心を開いてくださるだろう。」

 ロチェンは自分の心と闘った。これは、人の知力などを大きく超え出たダルマの真理に、自分の心をけがれのない状態で大きく開いていくことができるようになるために、どうしても必要な試練なのだ、と彼女は考えた。

 そして数週間後、ネパールへの危険な巡礼から戻って来たロチェンが師ペマ・ギャツォを訪ねると、師はまた昔のような優しい態度でロチェンを受け入れた。こうして彼女は一つの苦しい試練に打ち勝ったのだ。

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 ナプリ地域のヘリ隠遁所で、彼女は洞窟での3年間の隠遁修行を行ない、ンゴンド(準備修行)と完全なロンチェン・ニンティク・サイクルの読誦を終えました。この隠遁修行で彼女は真の本性を悟り、彼女の師に自分の悟りの歌を歌いました。

 その意味は心の理解を超えている。
 自然な輝き(力)の透明性はやむことを知らない。
 それは鳴り響いているが、言葉の発声を超えている。
 それははっきりとしているが、言葉による描写を超えている。
 心がやすらいで、私はそれに自然な自信を得ました。
 至福、透明性、概念からの解放は歓喜に満ちている。
 【未来の経験を】求め、【過去の経験を】追いかけるという作り事は消え去りました。
 一度だけでなく、何度も私はそれを経験しました。
 それが自然と私のうちに生じたとき、私は笑いました。
 私は他の何かから探し求めるべきものはないという自信を得ました。
 

 彼女はペマ・ギャツォと一緒にラサへ行き、ダルマ・センゲから一緒に教えを受けました。1890年、ペマ・ギャツォが亡くなり、その一ヶ月後にダルマ・センゲも亡くなりました。ダルマ・センゲは彼の弟子たちに、彼の手太鼓、ベル、カンリン(人間の大腿骨で作った笛)を、ジェツェンにチューの修行のために渡すよう言いましたが、実際に弟子たちが彼女に渡したのはカンリンだけでした。

 彼女はドンガク・リンのトゥルシク・クンサン・トントル、(ノシュル・ルントクの弟子である)ニャクロンのテルトン・ランリク・ドルジェ、ゾクチェン4世、そして(パトゥル・リンポチェの弟子である)ラマ・サンギェ・テンジンからも教えを受けました。彼女は(ケンツェ・ワンポの弟子である)マトゥル・テクチョク・ジグメ・パオからロンチェン・ニンティクと他の伝達を、そしてシェチェン・ラブジュンからリンチェン・テルゾを受け取りました。例外なく毎日、彼女は絶え間なくダルマの修行とダルマの行ないをなしました。

 
 サンリ・カルマルで、彼女は(シャプカルのトゥルクである)テクチョク・テンペ・ギャルセンからタパク・イシン・ノルブの伝達を受け取り、リクジン・チューニィ・サンモという名前を与えられました。タパク・イシン・ノルブは、チョギャル・ンガル・ワンポとシャプカル・ツォクトゥルによる主要な教えと修行でした。彼女は隠遁所でこの教えを瞑想し、多くの出来事を経験しました。それらには、空気のようになる硬いものや硬くなる空気のようなもの、そして彼女の前に現われたあらゆる種類の形とイメージがありました。さらに、彼女は集中するとどこへでも行くことができ、様々な領域の言葉を話すことができました。彼女はまるで手の平の線を見るかのように世界の出来事を見ました。彼女の肉体は熱を帯び、心は至福で満ちていて、ほとんど止むことなく歌い踊り、心は瞑想的な没頭からけっして離れることがなく、彼女の生来的な覚醒は一体のままで、中心や端といった識別がありませんでした。

  
 ある日、彼女はツルプのカルマパ・カキャプ・ドルジェ(1871-1922)に会いたいと思うと、すぐさま自分が彼の前にいることに気づき、祝福を受けました。カルマパの従者も彼女の仲間も、彼女がカルマパを訪ねたり、隠遁小屋を離れていることに気づきませんでした。

 それからサンリ・カルマルで、彼女自身がデロクの経験をし、死から戻ってきました。ある日、彼女が地面に倒れると、肉体は冷たくなり、呼吸は停止しました。はじめ彼女の母と友人は彼女が死んだのだと思いましたが、その後、彼女の母は、彼女の顔が死人の顔ではなく、生きた人のものだと気づきました。彼らが彼女の心臓を確かめると、鳥の体ほどの温もりが残っていました。
 彼女の死の経験の期間は3週間続き、その間、彼女はグル・リンポチェの浄土サンド・パリ(銅色の聖山)へ行き、グル・リンポチェから祝福と予言を受け取りました。彼女はバルドのプロセスを通過する困難の経験もして、死の神と向かい合ったり、様々な領域の衆生の苦しみを目にしました。

 彼女はセムニー・デヤン・リンポチェからロンチェン・ニンティクの完全なアビシェーカと経典の伝達を二度、そしてヨンテン・リンポチェ・ゾの教えを受け取りました。彼女は隠遁所で、三年間のロンチェン・ニンティクの読誦の隠遁修行を含め、それらの教えを修行しました。

 タクルン・マ・リンポチェの予言に従い、ジェツンと彼女の母は、タクルン・マ・リンポチェが住んでいるシュクセプに永住用の住居を設けました。

 それから、アミターバ(阿弥陀)如来のマントラであるオーム・アミターバ・フリーヒを数百万回唱えた99歳になる母が、アミターバ如来の浄土がある西に向いてこう言いました。

 「今生、来生、そしてその中間の生において、
  【輪廻への】嫌悪、そして【あらゆる衆生に対する慈愛】の並外れた態度が
  私の心の中に生じますように。
  私が三つの聖なるものを完成できますように。
  そして私がグル・アミターバと合一できますように。」

 そして彼女は亡くなりました。

 その後、ジェツンは残りの人生を、ロンチェン・ラブジャムの主要な隠遁所があったカンリ・トゥーカル近くのシュクセプ尼僧院で暮らしました。彼女は多年にわたって多くの人々を教え、そして一般人だけでなく、特に中央チベットの尼僧や貴族の在家の女性信者にも教えました。

 彼女はカトク・シトゥ・チューキ・トーカル、ギャロン・ナムトゥル・ドドゥル・カルキィ・ドルジェ、キュントゥル・リンポチェ、ゾクチェン・ケンポ・チョーソー、そしてリンツァン・ギャルポから伝達を受け取りました。

 ジェツンは弟子のノルジン・ワンモに、このような助言を書き記しました。

 「自ら心【の本性】を悟ることは、生来的な覚醒と呼ばれます。
  混乱した無智をその原初的な純粋性の中で浄化し、
  自発的に自己生起するブッダの三身を完成し、
  あらゆる功徳を完成させることによって、
  あなたは【究極の本性への現象の】溶解に到達するでしょう。
  心の概念を超えることが見解です。
  状況に乱されることなく【その見解に】とどまることが瞑想です。
  一切のことから解放されると、何を行なってもすべてがダルマの行ないになります。
  修行の果実を成熟させることが結果です。
  始めに純粋な態度【で瞑想を始めること】によって、
  その中間では主要な修行として生来的な覚醒を維持することによって、
  最後に概念から解放された智慧をもって人々に献身することによって、
  あなたが【瞑想の】三つの聖なる様相を完成し、解放を得られますように。」
  

 彼女の自伝は、地の雄牛の年(1949/50年)で終わっています。彼女はラブジュン16世の水の竜の年の終わりに、カンリ・トゥーカルで89歳で亡くなりました。

 インド・シッキムのソナム・カシ夫妻の娘ジェツン・ペマラ(1955年?誕生)、そしてラサのタリン家の息子ドルジェ・ラプテン(1954年誕生)が、ジェツン・ロチェンのトゥルクとして認められています。

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