捧げる瞑想2
この快楽とエゴの情報に満ち、実際に快楽的生活に慣らされた現代人の我々が、ただ原始仏教や原始ヨーガのような、執着や汚れをきっぱりと捨て、真理にのみ集中する、という生き方は、現実問題としてなかなか難しい。
そこで出てくるのが、「ささげる瞑想」なのである。
今回書きたいのは、しっかりと座って瞑想するという意味での瞑想ではない。
様々な喜び、執着の対象に出会うたびに、それらをすべて聖なる存在に対してまずささげるのだ。
たとえば食事をするとき、必ず聖なる存在にまず心の中でささげてから、食べる癖をつける。
これをやっていると、食物や味覚への執着は減っていき、味覚とは別の至福感が生じるだろう。
きれいな服を着るときも、まずは聖なる存在にささげてから着る。
何かを使ったりするときも、それをまずささげてから使う。
外を歩いていて、すばらしい景色を見かけたら、それも聖なる存在にささげるイメージをする。
町を歩いていて、欲望をくすぐる様々な物が目に入ってきたら、それらもすべてささげるイメージをする。
つまり、この現代日本で普通に生きていて、いろんな欲望をくすぐる情報が目や耳から飛び込んでくるわけだが、そのすべてを、聖なる存在にささげるのだ。ささげたあとに、自分で味わってもかまわない(悪業でなければ)。しかしこれをやるうちに、自然に自分の欲望も減っていくだろう。
このやり方は、単に「執着を捨てる」やり方よりも、高度なやり方だ。しかし現代ではこれが一番いいのではないかと思う。もちろん、ストレートに「捨てる」ことができれば手っ取り早いが、それができずに中途半端になっている人が多いと思う。
だから「捨てる」心はあくまで土台として必要だが、その上に「ささげる」心を自分の習性にして、何でもかんでも、自分の人生の経験のすべてを、聖なる存在へのささげ物としよう。
このやり方は、心が執着から解放され軽くなり智慧が深まるのみならず、歓喜に満ち、また聖なる存在との縁も強まるので、すばらしいのです。
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