yoga school kailas

四つの道における見解と実践

 諸現象への認識、そして取り組み方は、様々なヨーガの道においてそれぞれ違ってくる。
 
 たとえば人にいじめられたり、ひどいことを言われたりされたりしたときに、どう考え、どう行動するか。

 仏教やヨーガ、ヒンドゥー教等における基本的な考えとしては、ここで「カルマの法則」が登場する。つまり一切は自分が過去や過去世において為してきたことが返ってきているだけであり、そこで心を動かさずに「耐える」ことによって、カルマが浄化されるということだ。よってここでは「忍耐」こそが最も重要な基本的実践ということになる。

 大乗仏教の菩薩道(ボーディサットヴァ・マルガ)においては、それよりも「慈愛」「慈悲」が強調される。「忍耐」というのはまだそこに自我意識が強くあり、その自我の苦痛に耐えるわけだが、菩薩道においては究極の理想としては自我のことを考えることが少しもあってはいけないので、ひたすら「愛」と「慈悲」を訓練する。相手への完全なる許しと愛があれば、耐える必要さえない。そこには怒りも苦痛もみじんもないのだから。その理想を身につけるために努力する。そしてただただ皆の幸福のために努力する。そのために自己の修行を進めようと考える。

 ジュニャーナヨーガ、ヴェーダーンタ、あるいは大乗仏教の「空の見解」の道においては、一切は幻影、マーヤー、空、あるいは心の現れであるという見解を貫く。目に見える現象の一切は、本質的には存在しない。いじめている者もいじめられている者もいじめるという行為もすべては一つであり、実体がない。実際に目の前に現れた様々な現象を、そのような幻影、空を悟るための材料として利用する。この場合も「耐える」必要はない。ただただ幻影性を理解することに努める。

 バクティヨーガ、あるいは密教の道(マントラヤーナ、ヴァジュラヤーナ)においては、一切は神や仏陀や師の愛、あるいは神や仏陀や師そのものであると見る。すべては神や仏陀、あるいは自分の師が、自分の成長のためにあらわしてくれた遊戯である。よってそこには神や仏陀や師に対する感謝と愛と喜びしかない。普通の人が見るような現実は存在しないが、しかしそれは単なる幻影というわけでもない。すべては至高なる神のマンダラである。そのような全肯定の思考によってすべてを受け入れ、喜んで一切の現象を自分の成長につなげていく。

 これは一例であるが、簡潔に言うと、「カルマを浄化するための忍耐」「他者への許しと愛」「一切の幻影性を悟る」「至高者・師への愛と感謝」これらをそれぞれ、あらゆる現象において貫き、そのような目ですべてを見、実践していくということである。

 そして普通はこれらのどれか一つの道でもいいのだが、現代はカリユガといわれる悪い時代なので、これらすべてを総合的に実践すべきだろう。日々、これらの土台を培い、そして心を動かす現象が起きたときにはこれらを総動員して思索し、実践する。

 そして体を動かすヨーガや呼吸法などは、これらの実践をスムーズに行えるようにするための、物理的・肉体面からの土台作りである。

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