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勉強会講話より「解説『ナーローの生涯』」第二回(4)

◎認識するが故に

 でも例えばわたしが、そういうふうに気づいて意識をパッと変えたわけだけど、今の例でいうとね、そこに気づくまでは「けがれたパンツ」っていう嫌な思いを持ってると。
 ここでもう一回いうけども、二つのここには理由があるんです。理由っていうか、二つのシステムが働いています。二つのシステムっていうのは、そもそもそこに汚いパンツがあったっていうこと自体が、まずわたしのカルマです。カルマっていうか心の働きっていうかな。で、もう一つ、それを汚い、嫌なものだと認識し、嫌悪してる状態もまた、わたしのカルマ、心の現われなんだね。で、特にこの二番目が重要なんです。
 一番目っていうのはつじつま合わせっていうか、便宜上みたいな話であって、大事なのはこの二番目――つまり、わたしの心がけがれているからそれを嫌なものだと認識するっていうことなんだね。
 ちょっと今日はね、難しい話になっているけども、ここでちょっと問題が起きるのは、じゃあ、けがれていなっかたらそれをそう認識しないわけだけど、でも認識しなくても、そこにけがれたものがありますよねっていう考えが出るかもしれない。でも、本当のことを言うと、それはないんです。
 これはどういうことかっていうと、またちょっと分かりやすくいうよ。例えば、よくあるパターンでいうとね、ある人がある人に対して「あの人はわたしに意地悪してる」って思ったとするよ。「あの人はわたしに意地悪してる」って思ってしまう。そういうことを思うっていうのは、自分の中に、人に意地悪をするっていう情報があるからです。つまり心のけがれがあるからです。心のけがれがあるから、人が何かをやってきたときに――本当はそれは意地悪じゃなくて、何気ない言葉とか動作とかだったかもしれないけど――それを「わたしは意地悪されたんだ」っていう思いで認識してしまうんだね。
 これも何回か言ってるけど、またじゃあ、分かりやすいのでわたしの話で言うけどね、わたしの小さい頃っていうのは――本当に小さい頃ですよ。幼稚園に入る前とかの小さい頃っていうのは――わたし自身でね、わたし自身のことを振り返ると、そうだな、貪りとかはすごくあったっと思う。いろいろなものを食べたいとかね。それから、無智的なとこも当然あったと思う。でもね、あんまり怒りがなかったんだね。わたしの場合ですけどね。本当に二、三歳の頃って、人を怒るとか人を憎むっていう発想が、まあほとんどなかった。ほとんどなかったんだけど、幼稚園に行ったり小学校に行ったり、だんだん大きくなるうちに、いろいろな情報が入ってきて、あるいはいろいろな悪いカルマを積んじゃって、だんだん人を怒ったりとか、ちょっと人に嫌な気持ちを向けるっていうのもでてきた。
 で、それによって逆に思い出したんです。思い出したっていうのは、もっと小さい頃、自分が「あれ、あのときなんか人に意地悪されてたのかな」、あるいは「あのとき、人に怒りを向けられてたのかな」っていうことを、後で気づいたんですね。後で気づいったっていうのはつまり、そのときは気づかなかった。自分が、例えば人から意地悪されたりとか、怒りを向けられてても全く気づかずに、それが――例えばその人が自分のことを好きなのかなとかね。その人が自分に優しくしてくれているっていうくらいまで勘違いしてた。
 つまり、こっち側に、例えばですけども、怒りとか憎しみが仮にゼロだったとしたら、相手の怒りや憎しみに気づけないんです。一つはね。
 でも、今の例の場合は、わたしの場合は、ちょっと成長してきて自分の中にけがれがついちゃったから、逆に気づけるようになった。でも、極端に言うとそういうことなんだね。自分にもし、人に意地悪をするっていう発想とか、意地悪をしたいっていう思いがゼロだったら、誰かに意地悪をされているっていう発想自体がなくなります。よって、変な言い方だけど、その人は意地悪をされなくなります。
 だってさ、意地悪をする・されるっていうのは、お互いの認識があって成立することだからね。これは悪口とかもそうだけど。
 みなさん、この中で「わたしは一生これから悪口を言われたくない」っていう人がもしいるとしたら、それは一見不可能のように思われるかもしれないけど、可能です。つまり、みなさん自身の心が完全に清らかになれば、一生、悪口言われません。つまり、悪口を言われるっていう認識が成り立たないから(笑)、誰かが誰かに悪口を言ったっていう、その状況が成り立たなくなるんだね。

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