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スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集(29)

                         1913年9月27日
                         カンカルにて

 親愛なるXへ

 [1913年9月]アシュヴィン月4日付けのあなたの手紙を受け取りました。
 わたしはあなたがギーターに関するわたしのコメントを喜んでくれたと聞いて、嬉しく思っています。あなたが書いた「君が何をしようと、何を食べようと、云々」という節[第九章、二十七節]の趣旨は当たっています。それは自分自身を道具として、そして神を行為者として考えるということでした。
 もう一つ別の考え方があります。それは、彼がすべてのものになっておられ、すべてのものの中に住みつつ、これらのあらゆる遊びをなさっておられるということです。これらの態度にはすべてこの取るに足らない「わたし」の停止が必要となります。このつまらないエゴが一切の問題や無智の根本だとしっかりと理解してください。

 自己の明け渡しの意味するところは、主がわたしを置いてくださるところならどこでも、わたしにためになると考えて満足するよう訓練すること、自分の意志と神の意思を一致させること、そして、幸と不幸、得ることと失うことなどの中でも平静であるよう訓練することなのです。
 言い換えるなら、人は解脱した後に初めて自分自身を明け渡すことができます。人はそれまで繰り返しヨーガを訓練しなければいけないでしょう。神への真の明け渡しとは、解脱することです。もし人がこの明け渡しの態度を誠実にそして心から訓練するなら、彼は神の恩寵により解脱を得ます。

 あなたは放棄について書いていましたね。この内容に関して、師はよくこうおっしゃっていました。

「嫁は初めのうちはいろいろな骨の折れる仕事をいっぱいするが、子供ができたら、もう全く他の用は足さなくてもいい。赤ん坊を抱いてヨシヨシとあやしているだけだ。そして赤ん坊の幸せが彼女の幸せになるのさ。」

 ここで言っている妊娠とは、人のハートに神を置くことを意味し、子供ができるとは神を悟ることを意味しています。

 もう一つ別の態度があります。主の戸口にとどまり、彼の恩寵を待ちなさいというものです。もしあなたが誠実なら、神の恩寵があなたに授けられるでしょう。師はそれを子猫のたとえ話で説明されました。子猫は別のものを求めないし、自分で何かをしようともしません。母猫が置いてくれた場所ならどこでも、そこでじっとしています。
 これらのサーダナーのどれでもいいので完成させること――それが唯一必要なことです。主は全智の御方です。彼はすべてをご存知です。「あなたは信じる通りのものを得るのです。」

                              愛を込めて、
                              トゥリヤーナンダ
 

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