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解説『ナーローの生涯』第二回(5)

◎まやかし

 これが第一の話なんですが、で、ちょっとまた話を戻しますよ。でもですよ、「でも」がでてくる。つまり、今の例で言うと、こっちが心が清らかになったおかげで、意地悪を認識しなくなった、あるいは悪口を認識しなくなったとしても、でも、その誰々さんが、本当に意地悪をしている場合もありますよと。
 つまり、ここで二つのパターンがあります。二つのパターンっていうのは、例えばAさんだったら、Aさんが自分に――本当は別に意地悪してない。けど、こっち側にけがれによってそれを意地悪としてみてしまう場合ね、これが一つのパターン。
 で、もう一つのパターンは、本当に意地悪してる。本当に意地悪してて、それを苦だと感じてるパターンね。
 で、このどっちのパターンであれ、こっちが清らかになれば、意地悪されているという認識がなくなって、苦は消えるわけだけど。 
 で、問題は、一はいいとして、二のパターン――つまり本当に意地悪していた場合、こっちがそれを意地悪だと認識しなくなっても、でもこの人が意地悪しているのは事実ですねって、普通は思うかもしれない。でも、そうじゃないんです。つまり、本当は意地悪してないんです(笑)。
 これは、心を柔軟にしなきゃいけないっていう世界なんだね。つまり、誰々さんが意地悪をしてるっていうような実体のある現象っていうのは、別にないんです(笑)。すべてがそういう意味でいったら、まやかしなんだね。いつも言うようにね。だから相当柔軟な発想で世の中を見なきゃいけない。
 だから、われわれはそうじゃないガチガチの、この外界の世界の経験に対する観念的なね、「これはこうであってこうであって、こういうときはこうなんだ」っていうガチガチな頭を植えつけられてきてるから、このような柔軟な発想っていうのは、なかなか、何ていうかな、こう飛び込みにくいところがある。でも、少しずつ少しずつ自分を訓練して、そういうね、世界に自分に明け渡すような状態になっていかなきゃいけないんだね。
 で、ちょっと話が飛ぶけども、例えば大乗仏教とかでいってる、衆生への慈悲とかね。これは、もちろんみんなの幸福を願い、みんなを幸福にするために修行すると。あるいは、みんなの苦しみを哀れむ。あるいはみんなを平等に見るとかね、みんなを平等に愛するっていうのは、みんなのためでもあるわけだけど、同時に自分の中のそのようなガチガチの偏った、凝り固まった観念的意識を破壊するのにもとても役立つんだね。われわれがその衆生に対して、自分を明け渡していくっていうかな。あるいは自分と他人の壁を取り除いて、自分と他人を同じように見ていくと。
 あるいは、シャーンティデ―ヴァの『入菩提行論』とかだと、より激しくなるわけだね。シャーンティデ―ヴァの『入菩提行論』の第八章とかをみると、より激しく、今度は自分と他人の転換ね。自他転換っていうわけですけども、自分と他人を交換する修行をしなさい、とかでてくる。普通は自分が可愛くて、他人はどうでもいいんだけども、逆に他人が可愛く、自分はどうでもいい状態にしなさいと(笑)。つまり、平等ですらないと(笑)。平等ですらなくて、完全に逆転しなさいと。
 これは、もう一回言うけども、みんなのためでもあるわけだけど、同時に、今言った自分の持っているそのガチガチの幻影を壊すためにも大変役立つ。そのような慈悲の修行をしっかりすることによって、ガチガチの観念が壊れていき、そして今言ったようなバクティ・ヨーガ的な、あるいはグルヨーガ的な、すべてを心の現われ、すべてを神の祝福、すべてをグルの祝福と観る修行を続けていくならば、この世界の正体みたいなものがだんだん分かってくる。
 で、その一つの答えとして言うと、最初に言った、あれ、この世界っていうのは、神しかいなかったと。あるいはグルしかいなかったと。で、それが自分の心の現われとしていろんなことを見せてくれていただけなんだっていうことに、だんだん気づいてくるんだね。
 そうすると、ある意味ですよ、百パーセント教えを実践できるようになってきます。
 みなさん、こういうふうに思ったことがあるかもしれない。例えば、いろいろな教えを学んでね、例えば『バガヴァッド・ギーター』とか『入菩提行論』とかを学んで、「いや、素晴らしいこと言っているかもしれないけど、これ百パーセント無理でしょう」と。「今の自分にはちょっと無理があるな、差があるな」と思う人がいるかもしれませんが、できるようになってきます。つまり、自分がそれをできない一つの壁みたいなもの、観念みたいなものが、そういう修行によってね、ガラガラと崩れ落ちていくわけですね。

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