yoga school kailas

何かをせずにはおられない

ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋

バガヴァッド・ギーター 勉強会 
「第3章」

2007・1・17

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。

◎何かをせずにはおられない

 そこでこのクリシュナが言ってるのは、

『行為を避け、何をせずにいたとしても、人はカルマから解放されるわけではない。
 また形だけ出家したからといって、サマディの境地を達成できるわけでもない。
 どんな人であろうとも、一瞬たりとも何もせずにじっとしていることはできない。
 なぜなら、人間は生来の性質(グナ)により、どうしても何かをせずにはおられなくなるからだ。』

 この間もちょっと勉強会で言いましたが、我々の行動というのは、身・口・意の三つがあります。もうこれは何回も言ってるね。
 じゃあ、Kさん。身・口・意はなんでしたっけ?

(K)肉体・言葉・思い。

(松川)肉体・言葉・思い、まあ、心ね。
 つまり肉体の動き、それから、言葉の動き、そして心の動き。
 この三つの動きっていうのは、我々は止められないんです。実は。それがここで書いてあることだね。
『生来の性質(グナ)により、どうしても何かをせずにはおられない』
と。
 何かをせずにはおられないっていうのは、例えば、「いや、そんなことありません。私は怠け者だから、一日中家にいても耐えられます。」――そうこと言ってるんじゃない(笑)。 ね。それはただつまり、怠けるっていう行為をしてるんです。だらだらするっていう行為をしてる(笑)。ね。

◎勘違いの危険性

 まあ一番大丈夫なのは、言葉だね。言葉は意思の力で止められます。よって、無言の行っていう修行があるんです。つまり無言の行っていう修行は、心と体を止めることは不可能だが、言葉は意思で止められるから、この三業の身・口・意のうちの少なくとも、口の業を止めてしまうっていう修行だね。でも体と思いは絶対止められません。体は、まあ細かい事言えばだよ、怠けてるといったって、寝返りはうつだろうと。ね。あるいは腹が減れば食事に行くだろうと。あるいはトイレに行きたくなるかもしれない。あるいはもっと細かい事を言ってしまえば、心臓は動いている。つまり肉体の動きっていうのは一瞬たりともわれわれは静止することは不可能。もっと言ってしまえば、原子が動いている(笑)。ね。だから肉体を停止するっていうのは全く不可能。それは、グナと呼ばれる、この現象世界を創り出している根本エネルギーの働きなんだね。それがある限り、われわれはこの肉体の動きから――まあ今言ったのは非常に細かいことだけど、実際はこんな細かいことではなくて、大きな動きもわれわれは止めることが普通できない。
 例えば、まあこれは性格によるけどね、一日中、例えば瞑想してくださいって言われて、できる人がどれくらいいるかだね。素質がある人は別だよ。例えばミラレーパの弟子のレーチュンパっていう人は、少年時代にミラレーパの元に行って、ミラレーパが「この子は素質のある子だ」って言って、「君、私が一つ瞑想法を教えるから――まあ瞑想法って言うのは、非常に単純なものなんだけど――それをちょっとやってみなさい」って言って、少年が帰って……で、その少年のお父さん、お母さんがミラレーパの所へやってきて、「家の子が帰ってないんだけど、あなたのところに行ったみたいだけど、知らないか?」って言ったら、「いや、三日前に来たけど知らないよ」と。
 それでみんなで捜索したら、原っぱで瞑想してた。「お前三日もなにやってたんだ」って言ったら、「え? 3日? いや、ちょっとだけ瞑想しただけですよ」と。でもそのレーチュンパが空を見たら、瞑想を始めた時刻よりも、前の時刻になってた。で、混乱して、「一体何があったんだ!」って。
 つまり彼はものすごい集中力があったから、いったん瞑想に入ったら不動の状態で、ずーっと瞑想し続けられたんだね。
 だからそういうものすごい集中力がある人は別だけど、まあ、合宿とかやってもわかるように、「はい、瞑想に入りましょう」――ま、30分経つと、「ああー」っと始まったりして、一時間も経つと「おおー」ってこう、まあ、痛いのはしょうがないけどね。動きたくなってしまう、っていうかね。だから体の活動を止めるっていうのはなかなか不可能だね。
 で、心も全然不可能です。心は皆さん瞑想して、止まってるような感覚はあるかもしれないけど――もちろん、短い時間は止める事は可能です。でもそれもかなり高い段階だと考えてください。皆さんが考えている、心が止まったっていうのは、それは止まったようなイメージを動かしてるんです。本当に止まってるわけじゃない。映画が終わりましたっていう映画を観てるようなもんです(笑)。映像で、「はい、映画終了」っていう幕がその映像の中でひかれてるっていうか。そういう感じだね。つまり心が「うん。オレは心が止まってる」っていうイメージを繰り返してるだけなんだね。本当に止まってるわけじゃない。
 もちろん本当に止まることもできるよ。それはでも、かなりもうちょっと先の段階だね。
 それは短い間は皆さんでももしかしたらできる人がいるかもしれない。つまりものすごく集中して、呼吸法とかムドラーとかいっぱいやって、で、まあ数秒間、もしくは一分間ぐらい、本当にその、寂静の止まった境地を体験できるかもしれない。でもそれを持続させるのは難しいね。
 それから、いつも言うように、止まった寂静の境地と、タマスは違います。タマスっていうのはは本当は動いてるんだけど、闇に覆われてわかんなくなってるだけです。これも止まってるとは言わない。本当は内側ではいろいろ動いてるんだけど――だから夢とかも同じだね。よく夢を見ないって言う人がいる。本当に、クリアな意味で夢を見なくなったらかなり高い段階です。でも普通は夢をいろいろ見る。しかし、タマスだから覆われて夢を思い出せない。だからこのへんの勘違いがあるんだね。
 だからよく日本の瞑想教室とか禅とかでもそういう勘違いっていっぱいあると思う。「なにも私は心に雑念も浮かびませんでした」と。それは、浮かばないっていうイメージを繰り返しただけかもしれないし、あるいはタマスで覆われてるのかもしれない。
 本当のその、寂静の境地っていうのは、ちょっとでも体験できたらそれはものすごい素晴らしいことです。そこから得られるメリットって非常に大きい。だからそれはまあ、目指すのは素晴らしいんだけど、なかなかそれは難しい。
 はい。で、インドのサドゥーとかもそうだけど、あるいは仏教の修行者とかもそうだけども、さっきも言ったように、出家して、行為をしない、つまり現世的行為をしないっていう状況に身をおいてるという形に満足してるけども、実際は例えば、「虹の階梯」とかいろんな話でも言われるけども、例えば僧院に入ったとしたら、僧院内でのいろんなことがある。僧院内の人間関係があったり、僧院内で地位を得たいと思ったりとか、つまりまたいろんなカルマの動きが始まってるんだね。あるいはサドゥーになったら、サドゥーになったで、「ああ、今日なんか供物もらえるかな」とか(笑)。ね。いろんな心の動きが始まる。
 だからもちろんそのような状況を作り出すこと、出家っていう状況を作り出すことは素晴らしいことなんだけど、それがゴールじゃないんだね。ただそれによって満足してる人っていうのは、それは愚かだと。

◎本質を忘れるな

 そして、逆に『一方では行動の諸器官を抑制しながら、他方では心を感覚の対象に向けている者は、またおろかな偽善者と呼ばれよう。』
 はい、つまり「行動の諸器官を抑制しながら」っていうのは、つまり例えば戒律を守って、例えば一般の人に比べて禁欲をしてますと。あるいは、テレビとかも観ませんと。あるいはおいしすぎる食べ物を食べないようにしていますと。――という態度をとっていながら、心の中ではものすごく――例えば、欲望を追い求めていると。あるいはそれを表層の意識でそれを気づいていなくても、実際ものすごくいろんなことを追い求めてると。これは偽善者だっていう厳しいことを言ってるわけですね。
 もちろんそういうスタイルに入ることが悪いって言ってるわけじゃない。例えば出家して、現世を離れて修行生活に入ること、これが悪いわけではない。しかし逆に言うと、もしそういう人がいるとしたら、そこに気をつけなさいよっていうわけだね。
 つまり単純に、そのような外的な条件を整えたとしても、心がひたすら欲望を追い求めていたら、それは偽善者にすぎないと。だから本質を忘れるなと。で、その本質というのが、次に書いてある、

『それとは反対に、心で感覚を制御し、何事にも執着せず、行動の諸器官を動かす人は、まことに秀でた人と言われよう。 』
と。

 つまりわれわれが――例えば出家の人たちが外的な状況を、そのように整えるのは何の為なのかって言うと、心において欲望を完全に破壊してしまう、もしくはコントロールしてしまうことが本来の目的なわけだね。
 それには、外的なものを少なくしたほうがいい。もしくは捨てたほうがやりやすいっていうだけなんです。
 だから外的なものを捨てれば解脱するするんだったら、乞食は解脱してるのかと(笑)。ね。
 例えば、こういう人がいる。「いや、私はなにも所有していない。どうでしょうか」と。それは徳がなくて金がないからだと(笑)。その人がもし大金を手にしたら、いろんな物買うかもしれない。徳がなくて金がないから、ただ所有してないと。
 だから外的なものだけ見たらわからないんだね。そうじゃなくて目的は心における、完全なる欲望からの解放だと。あるいは感覚がもたらす、幻影の喜びからの解放だということをまず、念頭におかなきゃいけないっていうか、第一の目的におかなきゃいけないんだね。
 だからこれは理想だけども、――つまり心で感覚を制御し、何事にも執着せずに、行動の諸器官を動かすと。つまり、この世で普通に生きてるように見えながら、全くなんにも執着していない。これが最高の理想ですよと。
 だからこれは対比して言ってるわけだね。この世を捨てたようなふりをしていながらいろんなものに執着している人と、普通に生きているように見えながら全く執着してないで行動してる人と。これは後者のほうが素晴らしい。もちろん、前者のかたちをとって、何も執着せずに生きると。これは素晴らしいけどね。ただ、ここで言ってることっていうのはわかるよね?

◎出家の意味

 で、もう一つ言えることは、出家とかあるいは世を捨てるってことの意味だね。つまりさっきも言ったように、修行しやすい環境をつくるってことだけを言ってるだけであって、本当の意味でわれわれがこの世において、さっきも言ったように、身・口・意の心を止めるってことは不可能なんです。だってどんなかたちにしろ、生きるためには行動しなきゃいけない。
 例えば、もう一回言うと、僧院内に入ったら僧院内の人間関係もあります。「じゃー、僧院やめた」と。放浪してサドゥーになると言っても、当然生きなきゃいけないから、お供物とかお布施をもらう人との関係がある。あるいは自然の中でね、例えば、生きる中で当然体を動かさなきゃいけないし、その中での「あー、雨が降ったら嫌だな」とか、「あー、寒いな」とか、そういうような心の動きがいっぱいある。
 私は前も言ったけど、インドでいろんな修行者に会ってきて、これは別に批判するわけじゃないけども、私の感覚だけどね、インドの修行者の七、八割はビジネス・ヨーギーとかコマーシャル・ヨーギーっていう人達だね。つまり生活の為にサドゥーやってるって人がほとんどです。悲しい事にね。で、残りの二、三割の内、さらにその中の半分ぐらいは、ビジネスでやってるわけではないが、ちょっと動物的なヨーギーが多いね。つまりマリファナとか吸って、あるいは吸わなくても――私も以前ガンジス河とかバラナシとかで、一見聖者っぽい人がいて、「ちょっとこい」とか言われて、なんか教えを説いたりしていて、私も興味があったから、そのそばで修行したりして、ずっと一緒にいたりしたんだけど、その人はあんまり修行しない(笑)。一日中ガンジス河で「あー、ピース、ピース」とか「ハッピー」とか言って(笑)。「えー、これでいいのかな」って。そういうタイプの人もかなりいる。
 で、残りの中で、まじめに本当に悟りを求めて厳しい修行に打ち込んでる人ってのも、もちろんいるね。で、その中で、もちろん素晴らしい心の達成をしてる人もいるだろうけど、その中でもやっぱりいろんな性格の人がいるね。本人は悟りを求めているんだろうけど、すごく細かいことにとらわれてる人とかね。例えば、話してても、ものすごい言うことはとても崇高で、確かにまじめに修行してるんだなって感じはするんだけど、さっきも言ったように、例えば、今日どういう食事を得られるかをすごく悩んでいたりだとか、自分の持ってる、もちろん持ってるものはわずかなんだけど、例えば、水を入れる物とかね、お供物入れる物とかなんだけど、その汚れをものすごく気にしたりとか、例えば、自分の着てる服の破れをすごく気にしたりだとか。
 だから――例えば、サドゥが一枚の服しか持っていなくて、この人が自分の服が破れてるのをすごく気にしてることとですよ、大金持ちが百着服を持っていて、その人が自分の服の汚れとかを気にするのと、何が違うんだと(笑)。同じなんだね。結局レベル的には。状況っていうか、その人のカルマにおいて、現象が違うだけであって。
 もちろんそのサドゥが、「いや、こんなんではだめだ」と、「私は一切のことに執着しないようにしよう」って思ってるんだったら問題ない。でもそうじゃなくて、何度も言うけども、「自分は修行してるんだ」っていうようなフィーリングっていうか、イメージに惑わされて本質を見失ってしまう場合がある。それは駄目だっていうことだね。だからこれはもちろんわれわれも気をつけなきゃいけない。
 例えば、一応修行のかたちをしていると。あるいは普通の人よりもできるだけいろんなことにとらわれないような――外的に見るとね、生活を送ってると。しかしその、残されたわずかのものの中で、いかに欲望を満たすかっていうのに心が向いてるとしたら、それは単にスケールが小さくなっただけで、やってることは全く変わらないってことだね。だからそのへんは気をつけなきゃいけないね。

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