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ライトエッセイ さ・・・サマタ・ヴィパッサナ-

ライトエッセイ

さ・・・サマタ・ヴィパッサナー

 サマタ(シャマタ)とは心を止める瞑想。
 ヨーガスートラにおける精神集中・ディヤーナ・サマーディのプロセスのように、主に様々な精神集中のテクニックを使い、心を止め、深い境地に入っていく。
 もちろん実際には精神集中のテクニックだけではなく、日々の生活や修行における様々な修行の積み重ねが必要である。
 例えばヨーガスートラの禁戒・勧戒や、仏教の五戒や十戒なども、もちろん悪業によって低い世界に落ちないためとか、この世の苦しみを減らすためという狙いもあるが、同時に、サマタやサマーディに入る条件づくりのためでもある。

 ところで、心を止めるといっても、もちろんそれは単なる無というわけではない。
 正確に言えば、心を止めるというよりも・・・我々は、我々の無智、情報、間違ったデータ、カルマなどによって、この世界をありのままに見ていない。実際はそれらの情報によって構築された別のものを見続けている。このシステムを止めることだと言ってもいいだろう。

 これらを止めたならどうなるのか? それは教義上はいろいろな定義が説かれているが、実際には自分で経験するしかない。

 そしてそれらが止まったあとの世界を「観る」のが本当のヴィパッサナー(ヴィパシャナー)だ。

 「本当の」と書いたのは、実際にはヴィパッサナーには広い意味があるからだ。
 もちろんサマタにも広い意味がある。単に心が静まってきた状態や、単に精神集中している状態をサマタということもあるかもしれない。
 しかし本当のサマタとヴィパッサナーは、もっと先にある。

 サマタによって、通常の「現実」の動きが止まり、より純粋なリアリティが発現してくる。それを「観る」。あるいはそれと対照してかつての「現実」の実相を観る。
 一般的にはこの「かつての現実の実相」を観ることに重点が置かれて説明されがちだが、実際にはその部分はもっと前段階でやっておくべきことだと思う。つまり無常や苦などの基本的な教えを学び、理解を深めていくことで、サマタに入りやすくなる。サマタに入った後は、それら無常や苦などの本当の意味というか、お釈迦様や聖者方が言いたかった本当の意味を認識し、それを瞑想から出た後も忘れないように心に刻み込む。

 端的に言ってしまえば、「現実」は幻に過ぎない。しかしこの言葉もまたただの言葉に過ぎない。それは経験するしかない。

 では逆に、サマタで経験する至福や光の世界は真実なのか? それは段階的には真実である。変な言い方だが、我々が信じているこの「現実」よりは真実である。

 しかしそれを実体あるものとして固執してしまうと、それは単に「より高度な幻」にとらわれてしまっただけということになる。

 言い換えれば、正しいというか高度なヴィパッサナーは、その「観」の力によって、より実相の認識を純粋化していくプロセスであるともいえるかもしれない。

 もちろん実際にはそれによってどこまで行けるかというのは、その他の様々な条件がかかわってくる。
 当たり前だが、単に瞑想テキストにのっとってその高い瞑想の境地をイメージしても、高い瞑想の境地に至れるわけではない。

 その「様々な条件」こそが、例えば伝統的な様々な修行や教えの中にあり、また師がいる場合は師の指示の中にある。

 よって伝統的な修行や教え、そして師の指示や教えを、自分の判断で軽く見ておろそかにしてはいけないのである。

 密教においては、「師の指示や伝統的な修行を軽んじておろそかにしてはならない」ということは戒律としてまで規定されている。
 なぜなら密教は顕教よりもスピーディに成就しようとするので、そこに組み込まれたシステムの一つ一つのパーツの達成や欠落が、顕教よりもとてつもなく大きな意味を持ってくるからだ。
 それらが持つ意味や狙いは、表面的な説明とはまた別のところにあったりする。よって「無智の知」を持ち、謙虚になって、師や聖典の教えに従わなければならないのである。

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