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要約「スートラ・サムッチャヤ」(7)「魔事」

◎魔事

 菩薩が陥る危険性がある魔事は、プラジュニャーパーラミターにこう説かれている。

「菩薩がある段階の悟りを得たとき、しかるべき名が与えられる。
 彼はまだ不退転の菩薩としての性質を完成していないにも関わらず、自分はその名のとおりであると慢心を生じ、他の菩薩を誹謗する。それによって智慧から遠のくのである。そして素晴らしき師や法友を友とせず、悪友の仲間になって、小乗の修行者の境地にとどまる。
 慢心こそは堕落する根本罪であり、その罪は重い。」

 
 また、マンジュシュリーヴィクリーダには、次のように説かれている。

「精進こそが魔事の原因である。なぜなら、精進が働くとき、魔事は妨害する機会をうかがってやってくるからである。
 では、精進しない者に対しては、魔はどんな仕業を行なうのか?――精進しないこと自体が魔事である。」

 また、同じくマンジュシュリーヴィクリーダには、次のような「菩薩の20の魔事」が説かれている。

①解脱を求めるヨーギーが、輪廻を恐れている者に帰依したり、敬意を払ったりすることは、魔事である。

②空性に専心没頭して、衆生をないがしろにすることは、魔事である。

③無為に執着して、有為の善の行為を厭うことは、魔事である。

④心に禅定を生じても、再び心が乱れることは、魔事である。

⑤法を説く時、法を聞く者たちに大悲を持たないことは、魔事である。

⑥戒を破る者たちに対して憤慨することは、魔事である。

⑦小乗の教えを説き、大乗の教えを説こうとしないことは、魔事である。

⑧深い意味を持つ教えを隠して、どうでもよい平凡なことを伝えることは、魔事である。

⑨菩薩道を知っているのに六つのパーラミターを実践しようとしないことは、魔事である。

⑩精進しない者に無関心でいることは、魔事である。

⑪多くの徳を積んだとしても、菩提心を起こさないことは、魔事である。

⑫他者に智慧を得ることを勧めないことは、魔事である。

⑬輪廻を繰り返す人たちを非難することは、魔事である。

⑭智慧を実践しても、大悲の重要性を認識しないことは、魔事である。

⑮正しい方便を伴わない善業も、魔事である。

⑯菩薩の聖典を学ばず、間違った教えを唱えることは、魔事である。

⑰博学な教師が、嫉妬によって自分が持っている深遠な教えを隠すことは、魔事である。

⑱菩薩が修習すべきことに心を向けず、世間が要求していることに心を向けることは魔事である。

⑲大乗の仲間をよりどころとせず、小乗の仲間とともにいることを好むのは、魔事である。

⑳豊かな真理の法を持つ者たちをよりどころとせず、現世的な権力を持つ者たちとともにいることを好むのは、魔事である。

 また、サーガラマティパリプリッチャー(サーガラマティ所問経)には、こう説かれている。

「菩薩が容姿端麗で、あふれんばかりの財を持った大金持ちとなる。そのようなところにも魔事は働く。
 また、菩薩が自分の外見や財産や血脈や家族や従者がすべて満たされることを求めるならば、そこにも魔事は働く。
 智慧を充実するために努力しても、世間に対しても欲望がある。そのようなところにも魔事は働く。
 崇高なパーラミターという目標を見失い、容姿や財産や従者などと世俗的な価値にプライドを抱くならば、そこにも魔事は働く。
 またある菩薩は、ある他の菩薩が出家し、智慧を身につけ、感謝し、耐え忍び、さらに精進し、痩せ衰え、身体が弱弱しくなり、暑さや寒さのために肉体は恐ろしくしなび、静脈は体のいたるところにハッキリと浮き出ていることを知っている。彼はまた、頭に火がついた男のように日夜猛烈に真理を求めて修行し、善を求めて精進し、その結果、身体は痩せ衰え、弱弱しくなり、醜い顔色となって修行に励む菩薩も知っている。彼らのような菩薩は不名誉であると思い、また彼らの話は役に立たないと考えて耳を傾けず、彼らの説く法は全くつまらないもので、全く劣ったものであると考える。このように考えることは、菩薩が現世の喜びを追い求め、修行を無視するようになる魔の釣り針である。」

 また、同じくサーガラマティパリプリッチャーには、こう説かれている。

「大乗を求めるのに障害となるものが四つある。
 それは、自分の徳を他人に見せびらかすこと、
 他人の徳をバカにすること、
 名誉を得意がること、
 そして、人に怒りをぶちまけることである。」

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