マノモハン・ミトラの生涯(9)
1881年12月3日の土曜日、シュリー・ラーマクリシュナはカルカッタのマノモハン家をお訪ねになられました。マノモハンはこの特別な出来事を祝うために祭礼を手配しました。
Mは『ラーマクリシュナの福音』の中に、この印象的な訪問の記録を収録しています。――
午後に、シュリー・ラーマクリシュナはカルカッタのシムラー通り23番に住む、家長である弟子のマノモハンの元を訪れた。それは、中庭のある小さな二階建ての建物だった。
師は一階の客間にお座りになった。
バワーニープールのイシャンは、師にこう尋ねた。
「師よ、なぜあなたは世間を放棄なさったのでしょうか。聖典は家長の勤めを最も良い人生として称賛しています。」
師「わたしには、何が良くて何が悪いのか分からないのだよ。わたしはただ、神がわたしにおさせになるように動き、神がわたしにお話させになるように話すだけだ。」
イシャン「もし誰もが世間を放棄するとしたら、彼らは神の意思に反して行動しているということになるのでしょう。」
師「なぜ全員が放棄する必要があるのだね? はたまた、みんなが犬やジャッカルのように『愛欲と金』を楽しむのが神のご意思だと思うか? 神はその他に何の望みをお持ちでないとでも? おまえは、何が神のご意思で何がご意思じゃないのかを知っているのかい?
おまえは、神が皆を世俗的な生活に導くことをお望みだと言う。けれど、おまえの妻や子が死んだとき、なぜそれが神のご意思だと理解しないのだ? ひと口の食料もないときに、なぜその貧困が神のご意思だと理解しないのだ?」
ケシャブは何人かのブラフモサマージの信者たちと共にそこに訪問しており、恭しく師に礼拝した。
しばらくの間、読み手がバーガヴァタを朗読し、その解説をした。
師(信者たちに対して)「この世界でそれぞれの義務を果たすことは非常に難しいことなのだよ。もしおまえがたいそう素早く回転したら、目が回ってぼんやりとしてしまうだろう。けれども柱にしっかりとつかまっているなら、そのような心配はない。自分の義務を為しなさい。ただし神を忘れるな。
おまえたちはこう聞くかもしれない。『世俗的な人生がそのように困難であるならば、どうすればいいのでしょうか』と。その方法は、実践し続けることだ。
カーマールプクルでわたしは、トウモロコシの皮むき機で米を平らにしている、大工一家の女性たちを見かけた。彼女たちは常に乳棒で指をすり潰してしまうことを心配しながら、同時に自分たちの子供たちの世話もして、客たちと交渉も行なっているのだよ。彼女たちは客に言うのだ。『出ていく前に、ちゃんと代金を払って行ってください』とね。
不道徳な女性は、家事を行いながらも、常に心は愛人のところにある。
しかしそのような心の状態を習得するためには、修行が必要なのだ。人は時々、孤独になって神に祈らなければならない。神への愛を手にしてしまえば、世俗での責務を行なっても差し支えないよ。もしジャックフルーツを割ろうとすれば、べとべとした果汁で手はべたついてしまう。しかし前もって油を手にこすりつけておくならば、手はべとべとしないのだよ。」
キールタンが始まった。トライローキヤが歌っていた。師が踊られると、ケシャブや他の献身者たちも師と共に踊った。
音楽が終わると、師は何か食べるものを欲しがられた。砂糖菓子の載った皿が、家の中の台所から持ってこられた。ケシャブがシュリー・ラーマクリシュナの前にお皿をお持ちすると、師はそれを召し上がった。
師が食べ終わられると、ケシャブは師の手に水を注ぎ、師の手と顔をタオルで拭いて差し上げた。その後、彼は師を扇ぎ始めた。
師(ケシャブと他の信者に対して)「彼らは本当に、世俗的な活動の最中にあっても神へ祈ることができる英雄だよ。彼らは、重たい荷物を頭で運びながら神を悟ろうと努力する男たちのようだ。そのような男こそ、本当の英雄だ。おまえたちは、このことは極めて難しいと言うかもしれない。
でもね、どれほど熱心に取り組んでも、神の恩寵なくしては何も成し遂げられないのではないかね? 神の恩寵は、不可能でさえ可能にするのだよ。
もし数千年暗闇だった部屋にランプが持ってこられたなら、ランプは少しずつ部屋を照らすだろうか? 部屋は一瞬にして全て明るく照らされるのだよ。」
これらの心強い言葉は、ケシャブと他の在家信者たちの心を喜ばせた。――
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