バクティヨーガの修行の九つのムード 3.スマラナ
3.スマラナ
スマラナとは、24時間、常に至高者を思い続けることである。ここにおいて献身者は、至高者の御名とお姿を、決して忘れることはない。心はただ至高者の栄光を思うことだけに完全に没頭し、それ以外のいかなるこの世の事柄のことも思うことはない。
心は、神とその美点、御名、栄光などを思い、自分の体のことさえも忘れて、ただ神への思いだけで満ち足りている。ちょうど、ドゥルヴァやプラフラーダがそうだったように。
ただ神のことだけを思い、神の御名を唱え続けることも、このスマラナのカテゴリーに入る。
神のことを思うというのは、常に神に関する物語を聞くこと、神について話すこと、人々に神に関する教えを説くこと、神について瞑想することなども含まれる。
神のことを思うというのは、ある特定の時間にだけなされるのではない。意識がある限り、途切れることなく常に神を思うのである。つまり朝、睡眠から目覚めたときから、夜、睡眠に入るまでの間、ずっと神を心から離さないということである。
彼にとっては、神を思うこと以外は、この世においてなすべきことは何もない。
ただ神だけを思い続けることで、すべての世界のサンスカーラを破壊することができる。
ただ神だけを思い続けることで、感覚対象から心を引き離すことができる。
通常、心は外側へと向かうが、ただ神を思い続けることで、心は内側に向かう。そして心が神だけで満たされることで、この世の他の対象が心に入ってくる隙間はなくなる。
この「ただ神だけを思い続けること」は、非情に難しい修行である。普通は、24時間、ただ神だけを思い続けることなどは不可能である。心は、人を欺く。彼は神を瞑想していると考えていても、実際はこの世の様々な対象を夢見ている。
つまり「神を思う」とは、極度な精神集中による瞑想なのである。よって、ラージャヨーギン(真我への精神集中によって解脱を得ようとする修行者)に必要とされるすべての性質を、スマラナ・バクティを修習したいと思うバクタは得なければならない。
スマラナとは、マーヤーの河の力強い流れに逆らって泳ぐことである。そしてラージャヨーガがただ真我だけの瞑想に没入するように、スマラナは、ただそこには神しかいないという瞑想に没入するのである。
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