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知識・薫習・悟り

 仏教やヨーガの教えを学ぶ場合、それは知識・薫習・悟りという成熟のプロセスが必要ではないかと思います。

 まず単に知識として知っている場合、どんなにすばらしい教えをどんなにたくさん知っていても、それだけでは価値はあまりありません。
 悪人についての知識を知っている人が悪人というわけではないように、仏陀についての知識を知っている人が仏陀というわけではないからです。つまりこれらは自分の心やカルマとは本質的に関係のない情報ということになります。

 この知識が薫習に移行するとはどういうことでしょうか。

 薫習とはもともとは、たとえば香をたいて、その上で布をいぶすことで、布に香の香りを染み付かせることをいいます。長時間かけていぶされた布には香の香りが染み付き、一体化してしまいます。
 
これと同様に、ある考え、情報、行動などが、その人の心・言葉・行動に習性として染み込み、根付いてしまった状態を、薫習というのです。当然、この薫習には、良いものと悪いものがあります。

 悪い薫習とは、結果的に自分や周りを不幸に巻き込む、煩悩と呼ばれる薫習です。それはさまざまな執着であったり怒りであったり、あるいはそこから派生するさまざまな心・言葉・行為における悪しき習性です。

 そして良い薫習とは、もちろん、生まれつき持っているものもあります。しかしそれは、前生からの薫習といっていいでしょう。たとえば私は子供のころ、周りが殺生をしていても、私は虫一匹、殺すことができませんでした。別にそういう思想があったわけではなく、本心からかわいそうで、殺せなかったのです。これは私が前生から行なってきた不殺生という薫習の現れであると思います。

 しかし我々は、今、良い薫習も悪い薫習もどちらも持っているでしょうから、まずは悪い薫集を浄化し、良い薫習を増やしていく作業を行なわなければならないのです。

 真理の知識を薫習に変えるには、学習・思索・実践という三つのプロセスをたゆまず行なうことが必要ではないかと思います。

 学習は、頭の良い人であれば1,2回読めばその内容を理解し記憶してしまうかもしれませんが、それだけではだめで、繰り返し繰り返し何度も読むのです。
 日本の仏教ではなぜか中国語のお経を何度も読経しますが、中国語が読めないならばこれは意味がありません。日本人ならちゃんと日本語に訳された仏教やヨーガの経典、あるいは聖者が書いた本や、聖者の伝記等を、5回、10回、20回と、繰り返し繰り返し、読むのです。 
お釈迦様の時代、紙に書かれた経典というのはなく、教えは口頭で伝えられ、弟子たちはそれを繰り返し唱え、暗記していました。現代でもチベット仏教の僧などは、その基礎段階で、多くの経典を徹底的に丸暗記させられるそうですね。

 そのような形でしっかりと教えを何度も学んだ後に、今度はその内容をしっかりと思索しなければなりません。まずその意味内容の真義を深く考えると同時に、教えを自分自身に当てはめて、有意義な思索をしなければなりません。

 そしてその教えを実践に移します。たとえば慈悲の教えを学び、慈悲について思索瞑想したとしても、実生活で怒ってばかりでは意味がありません。学び、そして考えることで納得したそのすばらしい教えを、実際に実践するのです。その実践は、最初はなかなかできなかったり、あるいは失敗したりするでしょう。あるいは、実践することによって、その前の思索の間違いに気づくこともあるかもしれません。
 よってこの学習・思索・実践は、何度も何度も繰りかえされることになります。実践で生じた不備や問題点を、再び学習・思索し、そしてまた実践にチャレンジするわけです。
 こうして教えは単なる知識から薫習へと昇華されていきます。

 この薫習とは、繰り返しますが、心や行為に教えが根付いた状態です。ですからここまで来た人は、その教えに関しては、何も考えなくても、あるいはどんな状況であろうとも、自然に教えが心に浮かび、自然に教えが口から出、自然に教えに基づいた行動をし、またその「薫習」の言葉どおり、その人のそばにいるだけで、真理の教えの香りが周りに広がっていくような、そんな人になるでしょう。

 しかしこれもまだ悟りというわけではありません。
 薫習を深めていくことで悟りへ近づく道にはなるのですが、薫習の延長上に悟りがあるというわけでもないのです。
 しかし真理の薫習で自分の心・言葉・行為を満たしていくことは、悟りのための好条件を整えていくことにはなるでしょう。

 薫習とは、「正しい外的情報」が心に染み付いた状態ですが、悟りとか智慧というのは、外的情報ではないわけです。情報に左右されない、普遍的な本質に覚醒するということですから。

 悟りにも段階やパートがあるので、実際は、知識(学習・思索・実践)、薫習、悟りという三つのプロセス、パートを、平行というかダブるかたちで、ずっと修行していくことになるでしょう。

 そして菩薩を目指す場合は当然、自己の悟りを目指すよりも多くの知識・薫習・悟りを必要としますので、数え切れないほど生まれ変わって、自己の悟り、そして衆生を救うための真理の知識の学習、思索、実践、そして薫習への移行、そして悟りの獲得を、深め、広げていかなくてはなりません。さあ、がんばりましょう。

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