yoga school kailas

ディヤーナ・ヨーガ


20070214 バガヴァッド・ギーター⑤ 「第六章:ディヤーナ・ヨーガ」

◎瞑想を中心にしたヨーガ

 はい。今日は第六章、ディヤーナ・ヨーガっていうタイトルがついていますね。ディヤーナっていうのは、これはディヤーナっていうインドのサンスクリット語がね、中国に渡って禅という言葉になりました。つまり禅とか禅定、瞑想のことですね。つまり瞑想のヨーガ。
 この前までっていうのは――あまりわれわれの知っているヨーガ、ヨーガ修行との世界とはちょっとイメージが違って、日々の生活の中でのカルマ・ヨーガとか神を祈るとか、神の使命であるこの人生を全力で生きるとか、そういう話ばっかりだったけど、このディヤーナ・ヨーガっていうのはわれわれのよく知っている瞑想を中心としたヨーガ。われわれがこういう教室とかでよくやっているハタ・ヨーガとかも、当然その瞑想のための体や呼吸を整えるものなので、結局このディヤーナ・ヨーガに通じるヨーガということになりますね。つまり今普通にヨーガとして世界に知られているヨーガ。このディヤーナ・ヨーガの話に、ここから入っていきます。

◎真のヨーギーとは

【本文】
『至高者はこうお説きになった。行為の結果に執着せずに、ただ使命として行為を行なう人
それこそが真の出家修行者、真のヨーギーなのであり、祭祀の火を絶やさぬ人や行為をせぬ人がそうだというのではない。』

 はい。ヨーギーとは何かと。この『祭祀の火を絶やさぬ人』っていうのは、これはつまりヒンドゥー教のね、いろいろな宗派があるわけだけど、祭祀、つまり神へのいろいろな儀式を行なうときに火を焚くわけだけど、例えばお釈迦様の弟子だったカッサパ兄弟っていう人がいるわけですが、このカッサパ兄弟とかもそうだったって言われますが、神への火をずっと焚いてね、で、それを決して消してはいけないと。どんなことがあっても火をくべてそれを消さないようにするんだね。それが神への儀式の凄く大事なことだって考え方ね。で、そういうこと一生懸命やって、はい、私はだから偉大な真のヨーギーなんだと。こういうことは間違いだと(笑)。それはヨーギーのポイントではないと。
 もちろんこの神への祭祀の火を絶やさぬ人っていうのは一つの象徴的なことなわけだけど、単純に昔から伝わっている儀式を一生懸命やっている人をヨーギーというのではないのだよと。
 で、もう一つ。『行為をせぬ人がそうだというのではない』。これは前の章からずっとあるけども、単純に世間から離れて山に籠ったり部屋に籠ったりして、ただ何もしないでいると。はい、私は何もしないでいる世間から離れているヨーギーなんだよ、それは違いますよということだね。
 じゃあ何をもって真のヨーギー、真の出家修行者なのかというと、『行為の結果に執着せずに、ただ使命として行為を行なう人』だと。で、この意味っていうのはもう前の章で散々説かれているね。つまりわれわれは行為を離れることはできないんだね。身・口・意と言いますが、体・心・言葉――この行為、動きっていうのはストップさせることは不可能。ストップしたらそれは解脱です。解脱っていうかニルヴァーナだね。われわれは――つまりわたしはすべてから離れたと言いながら、例えば山に籠ったら山での行為が始まるわけです。部屋に籠ったら部屋の中でのいろいろな心の動きとか、部屋の中での体の動き、あるいは言葉が始まるわけです。だから結局われわれは行為から離れられないんだね。だからそうじゃなくて、ただ私の人生における今やるべきことはなんだろうかと。あるいは神の意思、使命とはなんだろうかと。それをただ考えてその結果には一切執着しない。これが真のヨーギーなんだよっていうのがこの一行ですね。

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