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ゾンサル・キェンツェー・チューキ・ロドゥの生涯

ゾンサル・キェンツェー・チューキ・ロドゥの生涯
    1893-1959

 ゾンサルのキャブジェ・キェンツェー・チューキ・ロドゥは、今世紀の多くの系統において最も偉大な成就者のひとりでした。

 彼はラブジュン15世の水の蛇の年(1893年)に、カトク僧院近くのレケ・アジャムで生まれました。彼の父はアムドのセル谷のテルトン・ドゥドゥル・ロルパツァルの孫、ギュルメ・ツェワン・ギャツォと呼ばれるタントラの成就者で、母はアムドのセル谷のツルティム・ツォでした。彼の父は彼をジャムヤン・チューキ・ロドゥと名づけました。六歳のとき、キェンツェーはほとんど努力することなく、叔父から経典を読むことを学びました。

 彼が7歳のとき、キェンツェー・ワンポの甥のカトク・シトゥ・チューキ・ギャツォは、彼をカトク僧院へ連れて行き、コントゥル・ヨンテン・ギャツォによって予言されたように、彼をキェンツェー・ワンポの行為の化身と認めました。シトゥは断髪の儀式を行ない、彼をジャムヤン・ロドゥ・ギャツォと名づけました。

 シトゥは彼の師であったケンポ・トゥプテン・リクジンをキェンツェーの教師に任命し、その指導の下でキェンツェは、祈り、文法、占星術、サンスクリット語、そして多くの経典を学びました。
 彼はカトク・シトゥからニンティク・ヤブシ、ロンサル・サイクル、その他多くの経典の伝達を受け取り、シトゥは彼の精神性の道と現世的な生活におけるもっとも重要な人物となりました。

 彼はトム谷のアゾム・ドゥクパからロンチェン・ニンティク、ゴンパ・サンタル、ラマ・ヤンティクの伝達とテクチュー瞑想の導入を受け取りました。

 キェンツェーが13歳のとき、父のように彼の面倒を見てくれた彼の教師が、三年間の重い病気との闘病の後、亡くなりました。その病床の最後の数年のあいだ、キェンツェーは彼のために食事の用意や洗濯、水汲みなどを行ない、自分の手で師の世話をしました。キェンツェーはその奉仕は彼の師を喜ばせるだけでなく、自分の内なる資質を浄化してくれると信じていました。
 彼の師の死後、キェンツェーは、カトク・シトゥ、ケンポ・クンパル、そしてその他多くの者から、ドムスム、ヨンテン・ゾ、イシン・ゾ、ケンジュク、そしてアサンガの経典を学びました。

 彼が15歳のとき、ゾンサル僧院の若いキェンツェー・トゥルクが亡くなったため、チューキ・ロドゥはゾンサルに僧院に住居を移し、キェンツェー・ワンポの座に就きました。そのような若い年齢で新しい環境に身を置くことは難しい挑戦であり、彼が首座を務めることに対する大きな反対に直面しました。しかし、彼の力量、無恐怖、寛容さ、そして慈悲の力によって、ゆっくりとすべてが静まっていきました。彼はケンポ・チャンパ・ワンチュクから、アビダルマ、アビサマヤーランカーラ、そしてマディヤマカーヴァターラを学びました。まもなく彼自身がゾンサルで選ばれた生徒たちに多くの経典を教え始めました。

 17歳のとき、タルツェ・ポンロプ・ロテル・ワンポから、へーヴァジュラ・タントラのラムデ・ロプシェや他の経典に関するサキャ派の伝達を受け取りました。18歳のとき、リンチェン・テルゾの伝達とチョリンのテルの教えを受け取りました。19歳のとき、ケンポ・サムテン・ロドからドゥプタプ・クントゥと他の伝達を受け取りました。その年、タントラの成就者であった彼の父が亡くなりました。20歳のとき、タルツェ・シャプトゥン・チャンパ・クンサン・テンペ・ニマから多くの伝達を受け取りましたが、その後そのラマは亡くなりました。

 26歳のとき、ゾクチェン僧院へ行き、ケンポ・ジグメ・ペマ・ロサルから僧としての受戒を受け、シェチェン・ギャルツァプからチャンテル、ミンリン・テル、そしてその他の教えの伝達を受け取りました。同年、彼はゾンサル僧院にカムチェと呼ばれるシェドラ(経典大学)を創設しました。彼はゾクチェン僧院のシェンペン・チューキ・ンガワン(別名シェンガ、1871-1927)を新しいシェドラの最初のケンポとして招きました。後年、そこは多くの偉大な学者を生み出した有名な施設となりました。

 28歳のとき、ゴロクへ行き、そこに何ヶ月間も滞在し、ドドゥプチェン3世、ジグメ・テンペ・ニマに会いました。彼はリクジン・ドゥパとランドゥプ・ティクレ・ギャチェンのアビシェーカを受け取りました。また、イェシェー・ラマ、ロンチェン・ニンティク、グヒャガルバ・マーヤージャーラ・タントラ概論の教えも受け取りました。ドドゥプチェン僧院のコンメ・ケンポからはドドゥプチェン1世によってテルとして発見されたダムチョ・デチェン・ラムチョク・サイクルの伝達を受け取りました。テルトン・ソギャルからはヴァジュラキーラとトルティクの伝達を受け取りました。

 32歳のとき、シェチェン僧院にて、彼の最も重要な師となるシェチェン・ギャルチャプ・ペマ・ナムギャルから、ダム・ンガク・ゾとチャンテルを含む多くの伝達を再び受け取りました。

 33歳のとき、中央チベットに巡礼に行きました。彼はミンドルリン僧院でケンポ・ンガワン・トゥプテン・ノルブから二度目の僧侶の受戒を受けました。それは彼の前任者が下ヴィナヤ系統に属するこの僧院で受戒されたからでした。

 彼が中央チベットから戻る直前に、カトク・シトゥが亡くなりました。その後、15年間にわたって、キェンツェはカトク僧院の運営にも気を配りました。彼は多くの宗教的なモニュメントを建て、経典大学を再強化し、そしてゾクチェン・リンポチェ5世による認定にしたがって、カトク・シトゥの新しいトゥルクをその座に継がせました。

 彼はゴロクに住む、アムド・ゲシェとしてよく知られているジャムパル・ロルウェ・ロドからゲルク派のタントラの伝達を多く受け取りました。彼はガトン・ンガワン・レクパからラムデ・ロプシェ、ヴァジュラバイラヴァ、そしてマハーカーラ・サイクルを受け取りました。カトク・ケンポ・ンガワン・パルサンからはカンドゥ・ヤンティク、ロンサル、そしてドゥドゥル・サイクルの伝達を受け取りました。彼は合計約80人のチベット仏教の様々な派の成就者から教えを受けました。

 彼は規定回数各10万回のンゴンド修行を5回(五体投地のみ40万回)やタキュン・バルワ、センドンマ、ラドゥプ・ティクレ・ギャチェン、ヴァジュラキーラ、ターラー、そしてロンチェン・ニンティクのパルチェン・ドゥパ、カンドゥ・ヤンティクのラドゥプを含め、多くの瞑想や新旧両方のタントラの多数のサーダナの読誦を成し遂げました。

 彼は多くのヴィジョンを見、多くの成就を成し、多くの神秘的な力を表わしましたが、彼の謙虚さのために、自伝の中ではそれらのいくつかを記しただけでした。

「もしわたしが論理学で自身を訓練したならば、
 論理的な思考のすばらしい智慧を得ただろうが、
 しかし、それはほとんど利益をもたらさなかっただろう。
 わたしが三つの根本サーダナ、マゴン、
 そしてロンチェン・ニンティクの他の祈りやンゴル派のいくつかの集会での祈りを
 覚えることができたとき、
 過去生の良い習慣【または記憶】を思い出しました。
 わたしは何度も心の中にはっきりと
 栄光あるサキャ僧院のことや
 過去生でコン一族に生まれたことを思い出しました。
 わたしはンガリ・パンチェン、偉大なるラツン、
 ンガワン・ロブサン・ギャツォ、
 ツァン・ヤン・ギャツォ、パルキェン、その他
 であったことを思い出しました。
 タントン・ギャルポが水晶を使って
 わたしを生来的な覚醒の本性へと導いてくれました。
 わたしは夢の中でアーリャスタヴィーラ・アンガジャ、
 ヴィマラミトラ、そしてロンチェンパに会いました。
 わたしはキェンツェー・ワンポから、長寿のアビシェーカを受け取りました。
 パトゥル・リンポチェから、ロンチェン・ニンティクのンゴンドの指導を受け取りました。
 ヌプチェン・サンギェ・イェシェーから、多くのタントラの委託を受け取りました。
 ラムデ、ミラレーパ、そしてツォンカパといったラマからの
 祝福の受け取りを経験したり、夢に見たりしました。
 わたしはラツン・ナムカ・ジグメによって
 タントラの修行を教わりました。」

 彼が表にあらわした力に関する多くの出来事がありました。あるとき彼が新しい像を祝福すると、それは触れると温かみがありました。彼がマハーカーラの像を祝福すると、その像はまるで生きてるかのように動きました。彼が神々への供物を準備すると、光線が寺院の周りにアーチを描きました。ヴァイシュラヴァナのアビシェーカのときに、黄金の塵が空から降ってきました。少量だけ用意されたはずの祝福の丸薬や甘露が膨大に集まった信者へ尽きることなく与えらたことが何度もありました。

 56歳のとき、アドゥク・ラカル族のカンドゥ・ツェリン・チョドン(1925年生まれ)と、霊的なパートナーとして結婚しました。彼自身やキェンツェ・ワンポ、コントゥル・ヨンテン・ギャツォの予言によれば、この結婚は彼の人生の障害を払い、彼の悟りの活動を促進するためのものでした。

 彼はチベット仏教の様々な派の弟子達に、ニンマ派、サキャ派、そしてカギュー派の教えの伝達を数多く与え、それにはヤブシのアビシェーカが3回、ロンチェン・ニンティクのアビシェーカが何度も、ヨンテン・ゾに関する教えが3回が含まれています。

 63歳のとき、彼はラサを抜けて旅をし、インドへと到着し、チベットの政治的な動乱を生き延びました。彼はインドやネパールの仏教の聖地をすべて巡礼しました。その後、シッキム王国の宮殿の教会を主要な臨時の住居とし、さまざまな身分の信者たちに、終わることなく教えや伝達を与えました。

 67歳のとき、ラブジュン16世の地の豚の年(1959年)の5番目の月の6日目、彼は光や地震、音といった印の中で亡くなりました。今日、彼の遺体のほとんどはシッキムの王宮の教会にある小さな黄金のストゥーパの中に保存されていて、カンドゥ・ツェリン・チョドンが、その生涯を瞑想と祈りに捧げながら世話をしています。

 彼のトゥルク、トゥプテン・チューキ・ギャツォ(キェンツェー・ノルブ、1961年生まれ)は、ドゥンセ・ティンレー・ノルブ・リンポチェと故ジャムヤン・ラの息子であり、そしてキャブジェ・ドゥジョン・リンポチェとブータンのロポン・ソナム・サンポの孫です。
  

 
   

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