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カトク・ケンポ・ンガワン・パルサンの生涯(6)

 カンドゥ・ヤンティクを瞑想している間、彼はヴィジョンの中でラチャム・ペマサルの姿で他に勝るもののない浄土に行き、オーサル・リンチェン・ニンポ・ペマ・レデルツァルという名前を与えられました。また、ロンチェン・ラブジェムとしてリクジン・クマラージャから伝達を受け取りました。

 彼が29歳のとき、彼の母が光や地震のサインの中で亡くなりました。彼はテルチェン・ンガワン・テンジンからニンマ・ギュブムの伝達を受け取りました。

 その後、彼はもう一度ゾクチェン僧院へ行きました。ケンポ・ラギャルからプラマーナヴァールティカを学び、ケンポ・センガからマディヤマカーヴァターラや他の経典の注釈を学びました。

 そして、彼はゾクチェン・リンポチェからケンポ、つまりゾクチェン僧院の僧院長になってほしいと頼まれましたが、断りました。なぜなら、師ルントクから、ゾクチェン僧院ではなくカトク僧院で教えるよう指示されていたからでした。

 彼はジョンパ・ルン(教師の役割)に戻り、もっと多くの教えを与え始めました。ユムカ・デチェン・ギャルモのアビシェーカのあいだ、花の蜜が涼しい祭壇で沸騰し、鏡に色つきで描かれた種字が浮き彫りになって現われました。ゾドゥンの経典の伝達のあいだ、華美な装飾をまとった見知らぬ女性がしばらくつきそい、そして消えました。ケンポがセムニ・ンガルソの教えを与えているあいだ、谷全体が虹の光でいっぱいになりました。

 アゾム・ドゥクパからゴンパ・サンタル、カンドゥ・ヤンティクのアビシェーカとンゴンドの教えやドルジェ・ニンポの実際の修行を受け取りました。

 30歳のとき、彼はカトク・シトゥ・チューキ・ギャツォ2世(1880-1925)に招かれて、カトク僧院へ行きました。そこで彼は新しく開かれたシェダ、つまり経典大学の教育助手として任命されました。
 ケンポ・クンパルがドムスム・ランビェ、プラマーナヴァールティカ、ツェマ・リクテル、イシン・ゾ、メンガク・ゾ、それからチョイン・ゾを教え、ケンポ・ンガチュンが生徒のためにその教えを概説しました。

 ケンポ・ンガチュンが31歳のとき、ケンポ・クンパルがザチュカに戻らなくてはいけなくなりました。ケンポ・ンガチュンはシェダの後を継ぎ、十三年間にわたって様々な経典を教えました。毎日、少なくても三つ、時には七つの講義を行ないました。彼はアビシェーカも与え、それにはニンティク・ヤブシとロンチェン・ニンティクを二十七回、ドルジェ・ニンポを三回、そしてゾドゥムの経典伝達十三回が含まれています。彼は四千人以上の僧を報酬なしで授戒しました。

 彼は教えながら、カトク・シトゥ、ジェウォン・リンポチェ、そしてケンポ・ギャルツェン・オーセルから、リンチェン・テルゾ、ドゥドゥル、その他多くの伝達を受け取りました。ゴロクのデツォ・ケンポ・ソナム・パルデンから、ラムリム・チェンモやその他多くのゲルク派の教えを受け取りました。ペマ・ノルブ2世(1887-1932)から、ナムチョ、ラトナ・リンパ、チャンテル、ミンリン・テルチョ、ジャツォン、そしてトゥルティクを受け取りました。 

 彼は再びジョンパ・ルン(教師の役割)に戻り、カトク・シトゥの助言に従って、僧院を確立しました。

 その後、彼はシェダを始めるためにパルユル僧院へ行き、入菩提行論を含む多くの短い教えを与えました。それから彼はチャクツァ・トゥルクの招きでダ谷のタラク・シェドゥプ・リン僧院へ行き、多くの他の教えや伝達に加え、リンチェン・テルゾのアビシェーカを与えました。

 上ニ谷のナモチェでは、彼は野営地でニンティク・ヤブシとロンチェン・ニンティクアビシェーカを与え、ンゴンドとイェシェー・ラマの教えを与えました。

 彼が47歳のとき(1925年)、カトク・シトゥの要請によりカトク派を信奉する千人の僧侶の集会がカトク僧院で召集されました。ケンポや多くの他の者たちが集まりましたが、カトク・シトゥは重体となり、すぐに亡くなりました。ケンポはリンチェン・テルゾのアビシェーカを与えました。

 49歳のとき、彼は隠遁修行でニンマの主要なサーダナの多くを瞑想し、多くの成就とヴィジョンを経験しました。特にラドゥプ・ティクレ・ギャチェンを瞑想しているあいだ、ロンチェン・ラブジェムのビジョンを見、ニンティクに関する経典を書くよう示唆を受けました。その結果、彼は彼のもっとも有名な作品である、イェシェー・ラマに関するクンサン・トゥッキィ・ティッカ、テクチューに関するニェンギュ・チュオ・チュドゥ、テクチューとトゥーゲルの両方に関するニメ・ナンガを書きました。

 51歳のとき、彼はマルカムを訪れて、ニンティク・ヤブシ、ロンチェン・ニンティク、リンチェン・テルゾのアビシェーカ、そしてンガルソ・コルスムとイェシェー・ラマの教えを与えました。その後、ギャルセ僧院で多くのアビシェーカと教えを与え、ギャルセのトゥルクを認定し、即位させました。また彼はニャクラ・チャンチュプのキャンプ地を訪れ、六十四人の者を新米の僧侶として授戒しました。

 54歳のとき(1932年)、彼はダ谷のタラク僧院へ行き、シェダ(経典大学)を設立しました。その後すぐに彼はペマ・ノルブ2世の死期が近いことを感じ、瞑想の身体で彼を訪ね、これから起こることについて話しました。ペマ・ノルブは、自分の体は病気のために衰えているので、死が近いと言いました。ケンポは彼にアミターバの浄土に行くよう勧めましたが、ペマ・ノルブはペマ・オー、つまりグル・リンポチェの浄土へ行き、ニンティクの教えを広めるために戻ってくることを望んでいました。
 まもなくケンポはペマ・ノルブが実際に重体だという知らせを受け取り、すぐに彼のところへ出発しました。そこへの道はかなり遠かったので、彼がそこに着いたのはペマ・ノルブが亡くなった五日後でした。

 キェンツェ・チューキ・ロドゥの求めに応じて、ケンポはカトクへ行き、カトク・シトゥのトゥルクの即位式を執り行ないました。

 55歳のとき(1933年)、彼はラトナ・リンパによって発見されたヴァジュラキーラ・ヤンサン・ラメに関する読誦の隠遁修行を行ない、イェシェー・ツォギャルのビジョンを見、ヴァジュラキーラの成就を受け取りました。彼の自伝は55歳の年で終わっています。

 62歳のとき(1941年)、彼は光のテントがその場所にアーチをかけ、音楽の調べが聞こえ、大地の揺れが感じられるという驚くべきサインとともに亡くなりました。ニョシュル・ルントクのトゥルクであるシェドゥプ・テンペ・ニマと、アゾム・ドゥクパの息子であるギュルメ・ドルジェが、彼の葬式を執り行ないました。

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