yoga school kailas

M――使徒にしてエヴァンジェリスト(7)

第三章

「相対的叡智からブラフマンの叡智へ」

 午前10時。Mがバクタたちとともに食事をする時間である。質問が持ち上がった。

「宗教生活のための善行、サダーチャラの必要性は何ですか?」

 Mは言った。

「ヴェーダの勤行はきわめて必要不可欠なものだ。それはリシたちの慣習でサダーチャラと呼ばれている。宗教生活を送っている間は、サダーチャラは絶対に不可欠だ。食事の支度をすることなど、為すことすべてが神のためであるという感覚をもって行なわれるべきなのだよ。最初に主に捧げてから、この神聖な食物を食べるべきだよ。これはサットヴァの性質を増大させる助けとなる。そうでなければ、どんなにたくさん食べても、それは信仰生活の励みにはならないだろう。
 動物も食事をするのだよ。だとしたら、人間と動物の違いはどれほどのものだろうか? 食物は体をつくるが、神に捧げてから食物をとることは、体をつくるだけではなく心を神へと向けるのを助けるのだよ。動物は何が善行なのかを知らない。善行を知っていながらそれを遵守しなかったならば、その人間は動物のレベルにまで堕落している。それだから、正しい行為は大きな重要性を帯びているのだよ。
 神を悟るまでは、リシの助言に従わなければならない。善と悪、純粋と不純、清らかな食物と不浄な食物、神聖さと邪悪さの区別――これらすべてを生活の中に取り入れなければならないのだ。神はどこにでも、すべてのものの中にいらっしゃり、それはタットヴァ・ジュニャーナに達したときにのみ悟られる。究極の実在の叡智が得られるのだよ。そうしてはじめて、人はこの金言を繰り返すことができる。そのあとにはサダーチャラはもはや必要ない。
 究極の実在の叡智が得られるまで、人はこれをすべて受け入れるべきだ。ボルス(タブラの表記法)を口で復唱して何の意味があるというのかね? それらは指で演奏しなければならないのだよ。

 そのために、バガヴァーンはギーターの中でおっしゃっている。

『君が何をしていても、食べていても、捧げていても、与えていても、苦行を実践していても、おお、クンティー妃の息子よ、私への捧げものとしてそれを行なうことだ。食物、礼拝、祈り、慈善、苦行――それらすべてを私へと捧げるのだ。』

 これを不断の決意で行なうことで、神は常に思いだされる。つまり、ヨーガ(神との親交)の絶え間ない生活が実践できるのだよ。それに加えて、純粋な心で準備をしないでは、ものをバガヴァーンに捧げることはできない。神に捧げずに、単にお腹を満たすつもりで食べ物を食べることは『チャウリヤ』――盗みと呼ばれる。食べたり眠ったり楽しむことなどによって、人は人生全体にわたって主を礼拝すべきなのだよ。そうしてはじめて、人は成功するだろう。
 挿入句的にしばらくの間主を呼んでも、それは礼拝ではない。ある人が見せびらかすようにして家で礼拝の儀式の準備をし、食事の配給や断食を行なっていると、人々は彼を信心深く宗教的であると思う。しかし神のためになされないならば、それらは束縛となる。もし神に捧げられれば、食べることや楽しむことでさえ解放に導くのだよ。」

質問「ところで先生! 食物などに関するタクルの見解はどのようなものですか?」

M「食物に関してタクルはおっしゃった。

『口には少しの食べ物を入れて、人は一日中、主の御名を唱えるべきだよ。』

 魚、肉、野菜――そんなにたくさんの種類の料理を食べて何の意味があるのだね? 心を有限の世界へ向ける人々は、外界のものや世俗的な楽しみに視線を注いでいる。それは彼らの欠点というわけではないよ。主が望まれる方法で彼らは生きているのだ。だが少し目覚めた人々や聖なる交わりを得ている人々、グルを見つけた人々が、なぜそれほど多くの食べ物を必要としなければならないのかね? 並のもので満足して、肉体が続く限り、人は主の御名を繰り返し唱えるべきなのだ。
 昔、カーマールプクルのタクルの家をラハ・バーブが修理してね。ドアには絵が描かれた。それを見て、タクルはおっしゃった。

『何をしているのかね? そんなことをやって何になるのだ? ジャッカルが入って来ない程度にすればいいのだよ。』

 彼以外に、だれがこのような洞察力を持っているかね?」

「タクルは生前に、人生のすべての問題への解決策をお与えくださった。シンプルな食物と習慣で十分だ。少量の豆とご飯をとって、その他の時間は『ラーマ、ラーマ』と繰り返し唱えなさい。
 彼は、

『伝統的なブラーフマニーの未亡人は私の理想だ。――小屋で生活し、緑の野菜を育て、その野菜と米を食べ、常に神の御名を繰り返すのだ。』

とおっしゃらなかったかね? そのために彼はスワミジにおっしゃったのだよ。

『豆と米だけがお前にあげることのできるものだ。それ以上は何もないよ。』

とね。」

 食事の後、Mはベランダで木製の長椅子に座った。およそ昼の12時である。あるバクタの行為が議論されている。そのバクタの食事や睡眠などの習慣が不規則であることや、その習慣による影響についてふれながら、Mは意見を述べた。

「マハラジ(スワミ・ブラフマーナンダ)の霊的な弟子などの偉大な人にイニシエートされ、スワミジのダルシャナによって祝福されたにもかかわらず、今なお彼は、ただ感覚の楽しみの生活を送っている。グルがどんなに厳しい生活を送られたのか、彼は考えもしないのだ。タクルの子どもたちはどれほどの苦難を耐え忍んだのだろうか。彼らは何日間も食物なしで過ごしたのだよ!
 かつてスワミジは3日間、何も食べ物を得られなかったことがあった。それで彼は気を失った。雨が降ってきてその滴が彼の体に落ちた時、彼は意識を回復して道を進み始めた。ついに彼はキュウリを食べることで九死に一生を得た。
 ヴリンダーヴァンにおいて、マハラジはクスム・サロワールで苦行を実践していた。彼は乾いたパンだけで生活していた。夜には彼はそのパンを水に浸して食べて、タパシャーを続けた。そのときタクルはご存命であった。ラカールはバララームとともにヴリンダーヴァンに行った。彼は病気になったが、世話は受けなかった。彼に5ルピーを送るのは、極度に難しいことだった。のちには彼は好きなようにお金を利用するようになったとはいえ、あのバクタはかつてグルが送った厳しい生活を決して考えることがないのだ。」

「8時にベッドから起き上がるのは正しくないことだね。人はそれから午後1時か2時までずっと、たくさんの種類の料理を調理するのだよ! あんなにたくさんのスパイスや油やギーを消費して何になる? 午前10時までに食べて、午後10時までに眠ることが正しい規則だよ。食べ物はシンプルなほど良い。リシの理想は、シンプルな生活と高度な思考なのだよ。夜に食べすぎることは怠惰をまねく。つまり、ブラフマムフールタ(およそ日の出の一時間半前)に起きることができなくなる。人はブラフマムフールタの時間に、神について考えるべきだ。贅沢に暮らす人々の家では誰もが、ブラフマムフールタはおろか、そもそも日の出を見ることすらない。
 現在バーブは訴訟に巻き込まれているね。こんな小さな悲しみで彼がそれほど狼狽するならば、あのような偉大なサンニャーシ・グルによってイニシエートされたことに何の意義があったというのだね? グルは己の使命を果たしてきた。人は自身のグルを熱心に見習うべきなのだよ。」

 Mはアシュワッタ樹の下に座っていた。1人か2人のバクタが彼とともにいる。午後1時30分過ぎである。彼らは話をしている。バクタの一人が尋ねた。

「ところで先生、神の悟りが人生の唯一の目的であるなら、多くの物事を学ぶことの必要性はなんですか?」

 Mはこのように答えた。

「そうだ、もし人が主を絶え間なく呼ぶことができるなら、それ以上のものは何も必要ではない。しかし、多くの人はそれができるだろうか? そのためにさまざまな仕事があるのだよ。勉学の終わりはブラフマチャリヤーの終わりだ。心を叡智の追求に従事させることで、多くの困難が勝手に取り除かれる。すべての仕事を、それらを主のものであると考えて行なうべきだ。行為の結果を主に捧げ、自分の好きな仕事に専念するべきなのだよ。目的は主を悟ることだ。
 種々の学習やさまざまな情報にはすべて、それらの使い道がある。すべては自分や他人のためではなく神のために行われるべきだ。すべては主のために――この考えをもって行動することによって、次第に人は主を見ることができるようになるのだよ。
 スワミジの叡智にはどれほど多彩な面があったのだろう! 彼はなんと多くのことを知っていたのだろう! 彼はなんと多くのことを学ばれたことか! そのために彼は外国の地でも、どんな人にもとてもうまく対応することができたのだよ。神は私たち全員に同じ仕事をおさせにならない。主はわたしたち一人ひとりにさまざまな仕事をおさせになるのだよ。多くの分野を知っていれば、多くの人々に対応するのも容易になる。チャイタニヤデーヴァは、文法学、論理学、ヴェーダーンタの偉大な学者だった。彼はこれらの追求をすべて放棄したのだが、後に、まさにこれらの学問が、彼に有名な学者を議論でうち破ることを可能にさせたのだよ。
 (あるバクタに)だから、法律を実践するのはよくないとはいえ、法律を知っていれば、弁護士たちの間にあっても法律の項目について巧みに議論することができる。もしその分野をまったく知らなかったとしたら、どのようにして議論ができるだろう? 法律でさえ神のお仕事のために必要なのだよ。

 タクルはよくおっしゃっていた。

『人は自分自身のことなら爪切りでさえ殺すことができるが、他者を殺すためには剣と盾を必要とする。』

 人生を振り返ると、すべての学びが実に不可欠であったことが分かる。
 スワミジはどれほど多くのことを知っていたことか!――歌うこと、楽器を演奏すること、レスリング、さまざまな聖典の知識、数多くの言語を操る能力、科学、芸術、文学、東洋と西洋の哲学、料理など、多くのことを知っていたよ。ヴェーダは非常にたくさんの知識の部門について言及している。ナーラダはあらゆる知識――神々の知識、ガンダルヴァ・ヴィディヤー、地質学、人類学、植物学など――に精通していた。スワミジもまた、あらゆる分野の知識に精通していた。彼の知識は何も無駄になることはなく、すべてが有用であると証明されたのだ。ああ! 彼の肉体がもっと長く生きながらえていてくれたらなあ! アメリカから戻ってきてすぐに、無理やり彼をヒマーラヤへ連れて行って休ませることができていたらなあ! どれほどの講話を行なったのだろうか。どれほど休むことなく激しく働いたのであろうか――彼にはまったく休みがなかったのだよ。この過度な労働が、彼の肉体を壊したのだ。

 相対的叡智の次に絶対の叡智――ブラフマヴィディヤーがくる。もし心が突然にブラフマヴィディヤーに到達するのでなければ、まずは相対的な智慧に携わるほうがよいのだよ。」

ベンガル歴 1329年 チャイトラ月 1日
西暦1923年 3月15日 木曜日
黒分13日目

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