yoga school kailas

スケッチブック

 衆生が常に 私のこの身を
 殴るもいいし ののしるもよい
 ごみをあびせたり あざわらったり
 なんでも好きに するがよい

 私は私を 彼らに与えた
 だから私は 私に対して
 たとえ彼らが 何をしようと
 思いわずらう 必要はない

 彼らがそれで 幸せならば
 私を使い なんでもなせよ
 しかしいつでも 私のせいで
 誰かが不幸に なってはならぬ

 もしも仮に 私のせいで
 誰かが怒り 苦しんだなら
 それはかえって 彼らが悟り
 幸せになる 原因となれ

 わたしを誹謗し、損害を加え、嘲笑をするすべての者が
 どうか偉大な覚醒を得て 聖者となりますように

 これは「入菩提行論の歌」の中の一節で、「入菩提行論」の中でも特に感動的な教えの一つだが、先日、「入菩提行論の歌」のこの部分を聞いていて、少し思い出したことがあった。
 何度も書いているように、わたしは中学生のころ、転校先の学校でひどいいじめにあった。
 といってもわたしは比較的体が大きく、その学校の生徒は体が小さい子が多かったので、暴力的ないじめはあまりなく、陰湿ないじめが多かった。
 わたしはこのころヨーガに出会ったが、いじめが始まったころはまだ出会っていなかったので、ヨーガ思想などとは関係なく、最初から、わたしはそれらのいじめに対して、「広い心で許す」というスタンスをとっていた。それは慈愛というよりもプライドのほうが強かったかもしれない。実際には相当きつかったと思うが、「お前らが何をしてきてもなんともないぞ」というポーズを無理してとり続けていた。
 ただ実際に、彼らを恨んだりしたことは一度もない。
 彼らの中でも強そうなやつを、喧嘩してぶっ飛ばしたいとは何度も思ったけど(笑)。それはケンカに対するあこがれのようなもので(笑)、相手への憎しみや恨みはなかった。

 しかし、恨みとは違うが、このころやられたことの中で、その当時強く心に傷がついたと思われることがあった。
 それは、図工の時間などに使うスケッチブックの表紙や裏表紙に、びっしりと、ひどく下品な落書きをされたことだ。
 これは、その当時わたしがやられたことの中では軽いことだったと思うが、なぜかわたしはひどく傷ついたようだった。
 なぜだろう? それはもしかすると、当時わたしは絵を描くことが好きだったからかもしれない。自分の中での神聖なものをけがされてしまったという思いがあったのかもしれない。

 また、あるとき前の学校で仲の良かった友達が、引っ越した家にわざわざ遊びに来てくれたとき、その一人がこのスケッチブックを発見し、「お前、いじめられてんじゃね?」と言った。このときわたしはすごく情けなく恥ずかしく感じた。
 たぶん親もこのスケッチブックや他のいたずらされた物で、いじめには気づいていたと思う。あるとき母から「あんまりひどいようだったら言いなよ」と言われたことがある。
 いじめられたら親や先生に相談しなさいとよく言うけれど、そんなもの、言えるわけがない。まあ性格にもよると思うが、わたしはプライドが高かったので、自分がいじめられているなんて親に絶対知られたくなかったし、どんなことをやられているかも知られたくなかった。ましてや自分から助けを求めるなんてありえなかった。

 さて、話を戻すと、入菩提行論の歌の上記の一節を聞いていたとき、ふとこのスケッチブックのことを思い出した。今でも心に浮かんでくるくらいだから、当時は相当傷ついたのかもしれない。しかし今思うと、それくらいのこと、笑って好きにやらせてあげてればよかったと思う(笑)。あの不安定でいきがっていた中学時代の友たちが、わたしのスケッチブックを落書きでめちゃくちゃにけがすことくらいで喜びを得るなら、いくらでもやってくれてかまわない。どうしてあのときはそう考えられなかったんだろう。
 そこでわたしは瞑想で彼らに謝った。「ごめんな。思いっきり好きなように落書きしていいよ」と(笑)。
 

※これは瞑想技法の一つでもある。教えに基づいて、自分が過去に犯してしまった他者への間違った行為や思いなどを振り返り、そのときの状況をもう一度イメージして、今度は正しく教えに基づいた態度で思い、語り、行為するイメージをするのだ。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする