ジャータカ・マーラー(16)「猿の王」
ジャータカ・マーラー 第十六話「猿の王」
世尊がかつてまだ菩薩だった頃、ヒマーラヤ山の奥地に住む猿の王だったことがありました。彼は猿として生まれていても、過去世から培った布施と慈悲の習性のために、心の中には嫉妬心も物惜しみ・貪りの心も残酷さも、全くありませんでした。
その猿たちのすみかには、一本の大きなバンヤン樹があり、その樹の一つの枝が、そばの川の方に傾いてたれていました。猿の王は未来を見通す力があったので、猿の群れに、こう伝えました。
「あの傾いてたれている枝には果実が一つもならないようにしなければならない。そうしなければ、おまえたちは一つの果実も食べられなくなるだろう。」
猿の群れはその言いつけを守り、その枝に果実がならないように気をつけていましたが、あるとき、一つの果実がなったのを見落としてしまいました。その果実は熟して下の川に落ち、川の流れに運ばれていきました。
川を流れたその果実は、ちょうど川下で川遊びをしていたある王の網にひっかかりました。
その果実はとても良い香りを発していたため、王と一緒に遊んでいた女官たちはその香りに酔って、眼を細めつつ、きょろきょろとあたりを見渡して、その香りの発するもとを探しました。
すると網に引っかかった大きなバンヤン樹の果実を見つけました。王は興味深くその果実を自ら食べてみると、あまりの希有なるおいしさに驚いてしまいました。
王はいつもおいしい食事を食べていたにもかかわらず、それをもしのぐその果実の味に魅せられてしまい、この果実がどこから流れてきたのか探ろうとしました。
こうして王は水遊びを中断して、家来たちと共に川上へと上っていき、そのおいしいバンヤンの果実がなる樹を捜索しました。
そしてついに王はその樹を探し当てたのですが、見るとその樹にはたくさんの猿がおり、例の果実を次々ともぎ取って食べていました。王は、自分が熱望していた果実を猿がむさぼり食うのを見て立腹し、
「殺せ、殺せ、この猿たちを殺してしまえ!」
と家来たちに命じました。そこで家来たちは様々な武器を持って、その樹に近づいていき、完全にその樹の周りを包囲しました。
実はその樹は、周りから独立していて、下を包囲されると、逃げるのは困難なのでした。逃げ場がない樹の周りを、殺意を持った人間たちに包囲されたことを察知した猿たちは、恐怖の叫び声を上げました。
猿たちが悪意を持った人間たちに包囲され、逃げ場がなく、恐怖しているのを見て、猿の王は心に大慈悲心を生じさせ、猿たちを元気づけて救おうと決心しました。
そして猿の王は、樹の頂に上ると、近くにある崖の縁までジャンプしました。その崖の縁まではかなりの距離があり、失敗すれば落下して大けがは免れないところでしたが、彼は勇気を持ってジャンプし、何とか崖っぷちに飛びつくことができたのでした。
そしてその崖の縁に生えていた蔓草の先を自分の足に縛ると、再びバンヤン樹へとジャンプしました。しかし蔓草の長さが少し短かったために、猿の王はやっとバンヤン樹の一つの枝の先端をつかんだのでした。
そして猿の王は猿の群れに、「この蔓草を伝わって、速やかに退去せよ」と命じました。
猿たちは恐怖に襲われていたので、ためらわずに猿の王の体の上を踏みわたって、蔓草を通じて崖の方へと逃げていきました。
多くの猿たちが絶え間なく彼の体の上を踏みつけていったので、猿の王は体がバラバラにちぎれそうに感じましたが、卓越した精神力によって耐え続けました。
この様子を見ていた王と家来たちは、大変驚き、こう思いました。
「自己を顧みず、他の者たちのためにこのような勇猛な慈悲行をおこなうとは、なんと驚くべきことか。」
そこで王は、家来たちにこう命じました。
「恐怖に混乱した猿の群れが彼の体の上を激しく踏みつけ、また彼はずっと同じ姿勢をとり続けていたので、あの猿の王は極度に疲弊しているに違いない。おそらくあの姿勢から自分で元に戻ることも不可能だろうから、彼の下に幕を広げて、蔓草とバンヤンの枝とを二本の矢で同時に断ち切りなさい。」
家来がその通りにすると、猿の王はそこから落下し、幕で受け止められました。彼は傷の痛みと疲労によって気絶していましたが、王の家来たちは彼の傷口を治療し、少しばかり元気を回復させました。
そこで王は猿の王に近づいて、言いました。
「あなたは自らあの猿たちの橋となって、自分自身の生命には哀れみを捨ててしまって、あの猿たちを救いました。
わずかな愛しか持たない者は、このようなことは決してできません。あなたはあの猿たちの何であり、またあの猿たちはあなたの何なのですか?」
猿の王は、こう答えました。
「彼らは私の命令に即座に従う者たちであり、私は王として彼らを守る義務があるのです。彼らに対する、親のような愛に縛られて、私はこの重荷をになうことを引き受けたのです。
大王よ、まさに私とこの者たちとのこの関係は、長い間かかって育まれたものなのです。」
これを聞くと王は驚いて、再び猿の王に尋ねました。
「大臣たちは王のためにある。しかし王は大臣たちのためにあるわけではない。それなのにあなたはどうして、自分の召使いたちのために自分の命を捨てたのですか?」
猿の王は答えました。
「大王様。一般的に王政はそのようにおこなわれるものなのかもしれませんが、私はそのような常識に従うことはできないようです。
私にとって、たとえ面識のない者であっても、その者の耐え難い、激しい、極度の苦しみを、見過ごすことはできない。ましてや親しい者たちの場合はなおさらである。
猿たちが陥った災難・苦難・落胆を見て、私は耐え難い苦しみに襲われたのです。」
王は、猿たちを助けて自分は瀕死の重傷を追いながらも、歓喜の心を生じているこの偉大なる猿の王を見て、この上ない驚きの心を生じながら、こう言いました。
「自分の幸福を無視して、他人に降りかかった災難をこのように自分の身に引き受けて、あなたはいったいどういう利益を得るつもりなのか。」
猿の王は答えました。
「王様、私の身体はいかに傷ついていようとも、心はきわめて安穏な状態にあります。私が統治してきた猿たちの苦難を取り除くことに成功したから。
勇者たちは、戦争で相手を打ち負かして、受けた傷を武勇の印として喜びます。私も同様に、喜んでこの苦痛を引き受ける。
多くの猿たちから礼拝と尊敬を受け、信愛を向けられ、安楽を与えられたことに対して、私は今やこのように負債の返済をなした。
それゆえに、苦しみを受けることも、友との別れも、安楽の破壊も、私を苦しめない。差し迫った死も、大祭の到来のようである。
過去に受けた恩を返したという満足と、苦悩の寂滅と、けがれなき名声と、王様からの親切と、死への無恐怖、
これらの徳を、私はこの災難に落ちてから獲得しました。
しかし、自分が支配する者たちに慈愛がない王は、これらの反対の悪徳に至るでしょう。
諸々の徳を欠き、悪徳が栄えた人にとっては、炎の充満する地獄より他にどこか行く先があるだろうか。
それゆえに、大王よ、私はあなたに、徳と悪徳の威力を説明しました。
大王よ、ダルマによって国を治めよ。幸運の女神は、女性の愛情のように気が変わりやすいから。
すべての国民に幸福を与えるよう、王は父のごとくあるべきである。
このようにすれば、まことにあなたには、この世においても来世においても、ダルマと財産と名声の繁栄があるであろう。
人間の王よ。あなたはこうして衆生を哀れむことによって、神聖なる栄光を獲得し、輝いてください。」
このように、謙虚に耳を傾ける王に対して、まるで弟子に対するようにダルマを説いた後、猿の王は、苦痛に満ちて動くこともできなくなった肉体を捨てて、天へと行きました。
このように、善行を遵守する人たちは、敵の心さえも惹きつけます。
このように世尊は、他人のためにひたすら善行を積んできましたが、多くの衆生は、自分のためにさえも善行をなすことができないのです。