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ジャータカ・マーラー(10)「智慧ある国王」

ジャータカ・マーラー 第十話「智慧ある国王」

 かつて世尊は、まだ菩薩であった頃、人間界に生まれ、ある王国を支配していました。家臣は皆忠実で、敵対者や敵対する国による災難などもありませんでした。

 彼は国の守護者として、自らの感覚の喜びという敵を征服した人であり、身も心も民衆の利益のために傾けて、真理の実践のみに専心し、聖者のごとくでした。

 民衆に見本を示すために、自らダルマの規律を厳しく守り続けていました。

 彼は財物を布施し、戒律を守り、忍辱を実践し、人民のために尽力し、彼はダルマの顕現の如く、光り輝いていました。

 
 さてある時、彼の国の人々が怠惰に陥ったために、神々はこの国に干ばつを起こしました。このとき王は、こう思いました。
「明らかにこれは、私か、あるいは民衆が、ダルマを犯したために、このような不幸が生じたのだ。」

 民衆の苦しみは我が苦しみのように耐えがたかったので、王は大臣・ブラーフマナ・顧問たちに、この民衆の苦しみを取り除く方法を尋ねました。すると彼らは、多くの動物をいけにえとして殺す儀式を提案しました。
 王の心は慈悲を本性としていたので、儀式の犠牲として動物たちを殺すことを喜びませんでした。しかし戒律に従順な王は、そのような提案をした者たちに乱暴な言葉を発することもなく、別の話題に話をそらしました。

 しかしそのような王の心情に気付かなかった彼らは、一層熱心に、王に動物の犠牲祭を勧めました。そこで王は考えました。

「この者どもは、他人の考えに動かされる弱い心を持ち、分別がない。
 彼らはそもそもはダルマを愛する、信仰心ある人間であるが、ああ、極めてまずい状況にある。
 世間には、多くの人々の帰依を受ける聖者とされる人たちが、法の名のもとに無益な殺生を行なうことがある。彼らは哀れにも悪趣に落ちる。彼らはいとも簡単に邪道に陥る。
 動物の殺害が、どうしてダルマと結びつくのか。動物の殺害が、どうして天へ至ることと結びつくのか。動物の殺害が、どうして神々を喜ばせるというのか。
 美しい天女の捧げる比類なき甘露に満足している神々が、動物の死骸などをなぜ喜ぶというのだろうか。」

 そこで王は一計を案じて、あたかも自分も犠牲祭に賛同したようなふりをして、彼らに言いました。

「私は動物ではなく、人間を殺して供犠を行おう。
 千人の人身供犠をもって、儀式を行ないたいと思う。」

 すると、ある祭官が言いました。

「王よ。一気に千人の人間を殺して供犠をしたならば、人民は恐れるでしょう。ですから一つの儀式が終わるたびに清めの沐浴を行ない、順次儀式をおこなうようにするのがよいでしょう。」

 それに答えて、王は言いました。

「各々方は心配する必要はない。私の人民たちが恐怖に陥らないように、私が工夫するから。」

 そして王は、都および地方の人民たちを召集して、こう告げました。

「私は千人の人身供犠の儀式を行ないたいと思う。しかし、ダルマの実践をなし、善良で潔白な者を、私は犠牲にすることはできない。
 それゆえに、私は汝らすべてを、戒律の点から観察することにする。細心の注意を払って汝らを観察し、戒律を犯す者や、私の命令を侮る者たちを、人身供犠の犠牲とすることにする。このことを汝らはよく了解すべきである。」

 そのとき、人民の中の主だった者たちは、合掌して王にこう言いました。

「あなたのなさることは、すべて人民の利益に向けられています。それを侮るなどということは、意味のないことです。梵天でさえ、あなたの行ないを承認せざるを得ないでしょう。あなたこそ、善き人々の最高の基準なのですから。
 王さまの喜びとすることは、そのまま私たちにとっても喜びです。」

 このように人々が命令に承服したので、王は、信用できる大臣たちを、悪人逮捕のために、もろもろの地方や都市に派遣しました。そしてすべての場所において、毎日、次のように宣言させました。

「堅固にして清浄なる戒律を守る善良な人に対し、王は安らぎを与える。
 しかし、悪行にふける千人の人身供犠をもって、民衆のために儀式を行なわんと欲する。
 それゆえに誰でも、今より後、傲慢なるがゆえに悪業を行ない、それを自慢し、王の命令を軽蔑するような者は、犠牲式の犠牲となって、身を柱に縛られ、恐怖の中で殺されることであろう。」

 そこで国中の人々は、人身供犠の犠牲にされることを恐れ、戒律を破ることをやめ、人を恨んだり憎んだりすることをやめ、互いに愛し敬うことに努め、ケンカや論争をやめ、他人と分かち合うことをよしとし、客人を歓待し、礼儀正しさと謙虚さの美徳を増大させました。彼らはまるでサティヤ・ユガ(人間界が真理で満たされる時代)にいるがごとくでした。

 このように人民が正しく生きるようになればなるほど、大臣たちはより一層厳しく、破戒をする人々を探そうとしました。それゆえ人民はより一層厳しく自己を戒め、誰一人、真理に反した生き方をする者はいませんでした。

 このような様子を見て、王は大変喜び、大臣たちに言いました。
「人民を守ることが、私の最高の願望である。彼らは以前は怠惰であったが、いまや布施を受けるにふさわしい状態となった。そこで私は彼らに布施を行ないたいと思う。
 財物を欲する者たちには誰でも、私の財産を与えなさい。こうして、われわれの国を苦しめている貧しさが追放されるように。」

 そこで大臣たちは、すべての都市や村に布施堂を作り、そこで毎日、貧しい人たちに多くの布施をなし、彼らを喜ばせました。

 そして、このような王の政策によって人民が怠惰を離れ、戒律を守って正しく生きるようになったために、神々も満足し、この国における干ばつなどの天災も、終わりを告げたのでした。
 どの季節も快適となり、大地は種々多様な穀物を生み、また、流行病が人々を苦しめることもありませんでした。
 敵軍によって苦しめられることもなく、人民の間で互いに生じる恐れもなく、また神々から生じる恐れもありませんでした。
 人々はみなダルマと戒律に忠実に生きていたので、まるでこの国にだけサティヤ・ユガが出現したかのごとくでした。

 さて、このように、王によってなされた政策によって、人々の苦悩も天災も消滅し、大地は歓喜した人々にあふれ、繁栄したとき、一人の大臣が、王に対して次のような讃嘆の言葉を述べました。

「王の智慧は、もろもろの智慧の中でも最高のものです。
 王さまは、動物の屠殺を行なうこともなく、すぐれた智慧の手段によって天災をおさめ、また人々を真に幸福へと導いたからです。
 政策に通じた人よ。世の人々は、現世果報を望んで、殺生を伴った愚かな儀式を行ないます。しかしあなたがおこなった儀式は、誰をも傷つけず、非難されるところのない、公正なものです。
 ああ、まことに、あなたを守護者としていただく人民は幸福です。」

 また別の者は、次のように王を称賛しました。

「ある者は財産を望んで、またある者は名声や天へ生まれることを望んで、善行をなす。
 しかし王は、自分のことは考えることなく、ただ他人の利益のために、智慧をもってなすべきことをなす。このような人は他にどこにもみられない。」

 

 このように、善なる志を持つ人は、たとえそれが伝統や習慣であろうとも、(動物の供犠などの)意味のない悪しき法に追従することはないのです。
 よって、善の志に基づいて、常に正しく努力すべきなのです。

 もろもろの王は、大臣の勧めや風習だからといって、その意味を顧みることなく何でも実行してはいけません。ただ衆生の利益を考え、智慧によって正しく精進する人のみが、人々に至福(解脱)と現世幸福の両者をもたらすのです。

 真理の実践を繰り返し繰り返し行なうこと。これのみが、人間に幸福を与えるのです。したがって、幸福を求める人は、常に真理に随順すべきです。
 
 そしてこの世尊の過去世物語に基づいて、次のように考えるべきです。 

「動物を殺生して供犠にささげることは、決して幸福をもたらさない。
 これに反して、布施・戒律・自制等は、幸福をもたらす。
 したがって、幸福を望む人は、布施・戒律・自制等の真理の実践こそを、最重要課題として実践すべきである。」

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