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ジャータカ・マーラー(1)「ブラーフマナの子、雌虎に命を捧げる」

「ジャータカ・マーラー」

 ジャータカとは、お釈迦さまが自分の過去世の出来事を語った教えです。
 それは紀元前の原始仏典から登場し、その後も派を問わず様々な仏典に掲載され、次第に数が多くなっていきました。
 それらもろもろのインドに伝わるジャータカの中から、グプタ王朝の時代(4~6世紀)のアーリヤシューラという人が、内容的に優れていると思われる34作品を選び出し、美しい文体でまとめなおしたのが、「ジャータカ・マーラー」という作品です。
 「ジャータカ・マーラー」の内容は、インドのみならず近隣のアジア諸国にも、壁画や彫刻として残っており、いかにこの作品が多くの人々に愛されたかを示しています。
 またチベット仏教のカダム派では、最重要視する基本経典のひとつとして、入菩提行論や大乗荘厳経論、ウダーナヴァルガなどとともに、この「ジャータカ・マーラー」をあげています。

 さて、このシリーズでは、この「ジャータカ・マーラー」の各作品を、干潟・高原両先生が訳したもの(講談社刊)をもとに、私なりに読みやすく若干のリライトを加えたものをご紹介していきます。よって本文は忠実な翻訳ではなく、私の独断による削除や付加や訳語の変更が加わっていますので、ご了承ください。

ジャータカ・マーラー 第一話

「ブラーフマナの子、雌虎に命を捧げる」

 世尊は実に菩薩として、もろもろの殊勝な誓いをもって、もろもろの非の打ちどころなき智慧によって、大悲の自然な流出によって、ある偉大なるブラーフマナの家に生まれました。

 彼は諸段階の清めの儀式を行ない、成長して、生来聡明なるゆえに、怠惰ならざるゆえに、あらゆる技芸に習熟して、あらゆる技芸の教師となりました。

 彼はヴェーダ学者の中のヴェーダ学者のようであり、王の中の王のようであり、インドラ神のようであり、尊敬に値する者でした。

 彼は卓越した功徳を持ち、際立った財産・尊敬・名声を有しました。しかし彼は、真理の修習を好む菩薩であるので、それらを好みませんでした。

 過去世の行によって清浄なる認識力を持つ彼は、もろもろの愛欲には多くの罪過が生じるということを見て、家庭生活を病の如く振り払って、ある高台にある森に住みました。

 彼はそこにおいて、無執着の心と、智慧によって清められた寂静の心によって、悪業に執着する人々に対して教えを説きました。

 彼の、慈悲心より自然に生じる寂静さに、野獣たちの心さえも感化され、心の害意を捨てました。

 行動が清浄なるがゆえに、感官を制御しているがゆえに、足るを知るがゆえに、大悲心のゆえに、彼は、見知らぬ人々にさえも愛されました。

 彼は少欲なるがゆえに、もろもろの偽りを見通し、利得と名声と快楽についての愛着を捨て去っていました。神々さえも、彼を敬い、信じ、愛しました。

 ところで、その出家者のことを聞いて、多くの人々はそのようなもろもろの徳に心をひかれ、親戚や家族をも捨てて、究極の目標に至るために、彼の弟子になりに来ました。

 彼は弟子たちに、清浄な戒、感官の制御、念正智、世俗の欲望から遠ざかること、および慈愛などのサマーディについて、力の限り教えました。

 さてある時、偉大なる魂は、数多くの弟子たちのほとんどが真実の道に導かれ、真実の解放の道に向かい、悪趣への門が閉ざされ、善趣への門が確定されたとき、弟子のアジタを伴って、修行にふさわしい山の洞穴や林を遍歴しました。

 そして彼は、山の森の中で、分娩の苦しみの結果、衰弱した一頭の雌の虎を見つけました。
 その両目は落ちくぼみ、飢えのために腹はやせ細り、幼い自分の子たちさえも餌のように見ているところでした。
 母を信頼して、乳を吸うために近づく子虎たちを、敵のように威嚇していました。

 菩薩はその雌の虎を見て、慈悲のゆえに震えました。
 慈悲を本性とする人々は、自分の苦しみには全くびくともしないのに、他人の苦しみにはたとえわずかな苦しみであっても震えるのです。

 そこで菩薩は、アジタにこう言いました。

「見よ、輪廻の邪悪さを。かの雌の虎は、飢えのために、自分の子たちさえも食いたいと思っている。
 ああ、自己愛の凶悪さは、なんと悪しきことか。自己愛のために、我が子さえも食べたいと思う。
 このようなもろもろのカルマを積み続ける、自己愛という敵を、誰が増長さすべきであるか。
 彼女が子供を食べたり、飢え死にしたりしてしまわないうちに、彼女の飢えをいやすことができるものを至急探してくれ。私も、彼女の悪業を阻止するように努力しよう。」

 アジタは「承知いたしました」と言って出掛けて行きましたが、なかなか食料は見つかりませんでした。

 菩薩は、アジタを行かせた後、考えました。

「彼女の食料は生き物の肉である。
 私の身体にはその肉がある。
 私が、他の生きた動物を彼女に与えるならば、それは私にとって、戒律に反することになる。
 とはいえ、すでに死んだ肉を手に入れられるかどうかはわからない。

 実体のない、壊れる運命にある、苦しみのもとである、恩を返さない、そして不浄であるこの肉体が、他人のために役立つことを喜ばない人、それは聡明な人ではない。
 自己の安楽に執着する者は、他人の苦しみを見捨てる。
 また、自己に力がない場合も、他人の苦しみを見捨てざるを得ない。
 他人が苦しんでいるとき、私には安楽はない。そして私には力がある。ならばなぜ、他人の苦しみを見捨てることができようか。
 たとえ相手が殺人犯であっても、その者の苦しみを見捨てるならば、私の心は、炎に焼かれるように苦しめられるであろう。
 それゆえに、私は断崖絶壁から飛び降りて、この肉体を差し出すことによって、この母子の虎を守ることにしよう。
 
 私のこの行為は、世間の利益を切望する人々に模範を示し、
 精進の少ない人々を励まし、
 捨施を恐れない人々を鼓舞し、、
 魔の大軍を意気消沈させ、
 仏陀の徳を愛する人々を喜ばせ、
 自利を求める人々と、嫉妬と愛著によって心汚れた人々に慚愧の念を起こさせ、
 最上乗をよりどころとする人々に信仰心を起こさせ、
 天への大道を清めるであろう。

 私には、『私の肉体を与えても、人々に利益を与えたい』という思いがあった。その願いが今やかなおうとしている。この実践は実り多く、遠からずして最高の正しい覚醒をもたらすであろう。

 私のこの努力は、競争のためではなく、名声を求めるためでもなく、天界を求めるためでもなく、王国を求めるためでもない。ごく身近な自己の安楽のためでもなく、ただ利他の達成のためなのである。
 さらに、これによって、世界の苦しみを取り除き、世界の楽を作る能力が私に常にそなわりますように。あたかも太陽に、闇を取り除き光を作る能力があるように。
 私のこの行為が見聞きされ、記憶されるにせよ、あるいは物語となって広まることがあるにせよ、あらゆる方法で、衆生に対して利益を与えますように。」

 彼はこのように決心して、利他の達成のためには自己の生命が尽きることさえ喜びとなし、それを見ていた神々さえも驚嘆する中、自らの肉体を捨てました。

 さて、菩薩の身体が大地にたたきつけられた時、その音を聞いた雌虎は、自分の子供たちを食べようとするのをやめ、生命のなくなったその菩薩の肉体に向かって、急いで食わんとして走り出しました。

 さてそのとき、肉を手に入れることができずに戻ってきたアジタは、
「師はどこに行ったのだろうか」
と見渡して、崖から身を投げた師の死体を雌虎が食べつつあるのを見ました。彼はそのたぐいまれな行為に驚いて、大いに悲しみ、苦しみ、動揺し、次のように讃歎の言葉を述べました。

「ああ、不幸に苦しんでいる衆生に対して、わが師は憐みの心を持っている。
 偉大なる魂は、自己の安楽にとらわれることがない。
 ああ、善き人たちの行ないは、彼によって、最善の状態にもたらされた。
 ああ、他の人々の名声や栄光は、彼に凌駕された。
 ああ、勇敢な、恐れのない、徳に満ちた、最高の慈愛が示された。
 ああ、彼の身体は功徳大きく、必然的に、特別の礼拝を受ける器となった。
 生来的に慈愛に満ち、大地の如く堅固で、他人の不幸に耐えられないわが師の、この勇気の成就によって、ああ、私のかたくなな迷妄は明白になった。
 衆生は悲しむべきではない。今まさに、この救世主によって、衆生は保護されるに至ったのだ。今や欲望の神々は圧倒され、おそれ、動揺し、溜息をつくばかりなのである。
 必ず、必ず、帰依し奉れ。この世尊、一切生類の帰依処、偉大なる憐みの心ある人、はかり知れぬ人、真実の菩薩、マハーサットヴァ(偉大なる魂)に。」

 そしてアジタは、この出来事を、法友である修行者たちにも伝えました。

 さて、この行為に驚いた彼の弟子たち並びにガンダルヴァ(音楽神)・ヤークシャ(鬼神)・ナーガ(龍神)およびインドラ神たちによって、彼の骨は大地に納められ、そこに花輪・美しい衣・装飾品・香木などの供物が、山のように積まれました。

 世尊はこのように、もろもろの過去世においても、すべての衆生に対して無量の慈愛を持ち、あらゆる存在を自己と同一視したお方でありました。
 よって衆生は、このような仏陀世尊に、最高の敬信と敬愛を持つべきです。
 このような慈悲に満ち、限りない難行によって成就された仏陀世尊のお説きになられた法を、敬重して聞くべきなのです。

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