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ジグメ・リンパの生涯(終)

 70歳のとき、彼は途中の数多くの聖地に立ち寄り、儀式を行い、供養を行い、教えを与えながら、ディクンからツェリン・ジョンに戻りました。彼の体調は良いように見えましたが、食事や睡眠をほとんど気に掛けなくなりました。昼夜、彼はヴァイローチャナの座法、または聖者の座法のどちらかで座り続けました。彼の目は、まばたきさえしませんでした。彼は自らの生命エネルギーをコントロールすることによって、生き続けていたと述べています。
 彼は繰り返し、自分は遠からず死ぬということをほのめかしました。しかし、弟子たちが悲しみに圧倒されたなら、話題を変えたり、ときには「おお、私の命に危険はないのだよ」とさえ言いました。
 彼は近しい弟子には個人的に、「自分は間もなく死んで転生するが、新しい転生者を探す必要はない」と伝えました。
 彼らは通常より簡素な葬儀を行なうつもりでしたが、彼はそのやり方を説明することによって、自分の身体を保存するようほのめかしました。
 彼の弟子が、医者に診てもらうよう懇願すると、彼はこう言いました。
「ああ! もしあなたが望むならそうしてもいいが、しかし、私には悪いところはないのだよ。それなら医者は何をしたらいいんだい? とにかく、遠くから呼んだりしてはいけない。それはただ人と動物につらい思いをさせるだけだからね。」

 その後も彼は人々に会い、求められれれば祝福や教えを与え続けました。数日間、彼の住居の周りには花の雨が降り、何度も軽い地震が起こりました。
 ある日、彼は、新しい上方の隠遁所のあるナムトル・ツェに移り、その場所で過ごせることに大いなる喜びを露わにました。彼は何人かの訪問者をもてなし、教えを与えました。

 まさにその翌日、地の馬の年(1798年)の9番目の月13日目、彼は、ホワイトターラーの瞑想に関する教えを与えました。早朝から、強い甘い香りが隠遁所全体に充満していました。空は晴れ渡り、風は全くありませんでしたが、優しい雨が青空から止むことなく降り続きました。すべての者が驚き、また心配しました。それから、夜の早い時間に、彼は祭壇に新しい供物を供えるよう言いました。彼が聖者の座法で座ると、彼の顕現の一切の表現は、原初的な本性に溶け込みました。

 彼の弟子たちは、2つの別の場所に隠された、2つの別の遺書を見つけました。それらには、彼の弟子に対する瞑想の教えと、彼の葬式と転生に関する指示が書かれていました。その内容の一部は、以下のようなものでした。

「私は常に、究極的な本性の状態にいます。
 私にとって、とどまることも、行くこともないのです。
 生と死という表示は、単なる相対性に過ぎないのです。
 私は、大いなる原初的な解放の中で導かれています。」

 ツェリン・ジョン、中央と西チベット、ブータンの多くの僧院と寺院で儀式が行われた数ヶ月後、彼の遺体はツェリン・ジョンの隠遁所の小さな黄金のストゥーパに安置され、そしてそれはツェリン・ジョンの修道院が破壊されるまで、そこに保存されていました。

 彼の死後、よく知られている転生は、以下のものです。
 ド・キェンツェ・イェシェ・ドルジェ(1800-1866)は、彼の身体の転生者として、パトゥル・リンポチェ(1808-1887)は、彼の言葉の転生者として、そして、ジャミャン・キェンツェ・ワンポは(1820-1892)は、彼の心の転生者として知られています。

 ジグメ・リンパは9冊の作品を記し、いくつものテルマを発見しました。それらの中で有名なものは、2(または3)巻からなる瞑想指導と儀式に関する経典を集めたロンチェン・ニンティクで、それはテルマの教えとして発見されました。ヴァジュラキーラの礼拝に関する経典プルパ・ギュルクは、テルマとカマの両方に基づいたものだと考えられています。2巻からなる解説書ヨンテン・リンポチェ・ゾは、彼の最も有名な学術的な著作で、それはゾクチェに関する最も総合的な手引書になりました。

 ロンチェン・ニンティクは、重要なテルマの伝統としてあり続け、彼の学術的な著作とともに、ジグメ・リンパの系統は、現在までニンマ派における最も有名な派の一つとなりました。ロンチェン・ニンティクの系統において、弟子と孫弟子たちは皆、同等に素晴らしい成就者たちであり、ジグメ・リンパ自身がこう予言しています。

「輝ける透明性という私のニンティクの系統には、父より優れた子供たち(弟子たち)と、祖父より優れた孫たちが現れるでしょう。」

 彼の多くの優れた弟子たちの中で、その主だった者たちは、ネチャン・トゥッキィ・ドムプにおいて、グル・リンポチェによってこう予言されています。

「ナムカイ・ニンポ、ニャン、チョク・ヤン、ならびに神聖なる王子の転生者たちによって、教えの扉は開かれるだろう。」

 弟子たちに関して述べると、タティ・ンガクチャン・リクぺ・ドルジェ(またはコンニョン・ベペ・ナルジョル)は、ナムカイ・ニンポの転生者であり、ブータンのロポン・ジグメ・クントルは、ニャン・テンジン・サンポの転生者であり、テクチェン・リンパ・ドトン・タルチェン(ティ・メド・グリンパ、1700-1776)は、ンゲンラム・ギャルワ・チューヤムの転生者であり、そしてドドゥプチェン・ジグメ・ティンレ・オーセルはムルム・ツェポ王子の転生者です。テクチェン・リンパ、タンドクパ、ならびにタティ・ンガクチャンは、ジグメ・リンパの教師かつ弟子でした。

 弟子たちの中で、ロンチェン・ニンティクを広める最も大きな働きをした成就者は、次の者たちでした。
 ドドゥプチェン1世、つまりジグメ・ティンレ・オーセル(1745-1821)は、ロンチェン・ニンティクの主要な教義保持者であり、3つの僧院を建てました。
 ドドン・クンキャプ・リンは、ド谷のシュクチェン・タゴに、オグミン・リクジン・ペルギェ・リンは、ツァチュカ谷のゲツェ・トとセル谷のヤルルン・ペマコに僧院を建てました。
 カム・ツァチュカのジグメ・ギャルウェ・ニュクは、長年にわたってタマルンの隠遁所にとどまり、後にツァギャの僧院的な隠遁所に移りました。
 ブータンのジグメ・クントルは、西ブータンのドゥンサン・ヨンラ・テンギェ・リオ・パルバル・リン僧院を建てました。今日、それは西ブータンのペマ・ガツァル地方のヨンラ・ゴンとして知られています。

 彼の主要な後援者の中で、デパ・プシュはツェリン・ジョンにある彼の僧院設立を支援をし、デゲの国王と特に女王ツェワン・ラモ――彼女は、ティソン・デツェン王の女王ポキョンサ・ギャルモツンの転生者として予言されています――は、古いタントラの木版印刷の原版、ロンチェン・ラプジャムの多くの経典、ならびにジグメ・リンパの9冊の作品の作製を命じました。
 また、チベットの摂政タツァク・テンぺ・ゴンポ(1810死去)とカルマパ・ドゥルドゥル・ドルジェ13世(1733-1797)は、大きな尊敬の念を持って、文書のやりとりを通じて彼に助言を求めました。

 チベット社会で名の知れた者たちが、弟子としてジグメ・リンパのもとに集まったにもかかわらず、彼は真の系統保持者たちを探すことだけに関心を示しました。そして彼らの多くは、目立たない経歴の持ち主でした。過去の成就者たちを引き合いに出しつつ、彼は自分の見解をこう述べています。

「1000人の有名な者を弟子として持つよりも、系統を保持できる一人の乞食を弟子として持つ方がよいのです。」

 ジグメ・リンパの生涯は奇跡に満ちていましたが、彼はその神秘的な力を隠し、彼の豊かな生涯をシンプルものに保ちました。
 彼は生まれながらの学者であり、伝統的な規律に則った修行はしませんでしたが、彼の一切の言葉は教えに変わり、彼の一切の行いは他者のためにありました。
 彼はツェリン・ジョンの人里離れた場所で、修行者として隠れて過ごしましたが、彼の智慧の光は、ニンマ派の仏教世界の隅々まで到り、それはいまだに世界中の多くの開いたハートを照らしています。
 彼は身体に吉兆なサイン、つまり、歯にはアー字、親指にはHYA字、心臓にはヴァジュラの図形、そしてヘソには儀式用のベルの形を持って、誕生しました。
 彼はブッダたち、神々、ならびに系統の成就者たちのヴィジョンを目にし、彼らの手から教えや祝福を受け取りました。
 彼の歯や髪の毛からは、高度なゾクチェンを成就した証として舎利が出てきました。
 彼が我々に残した最も重要なものは、ダルマカーヤの言葉、つまり彼が書物の形で残した究極の真理や、発見したテルマの教えです。

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