覚書・三つの無分別

これは体験がないと全く理解できない話なので、簡潔に、あくまで覚書として書く。
無分別とは何だろうか?
それは心が単に無になるというわけでもなければ、単に寂静になるということでもない。
そしてそれにはいくつかのパターンがある(実際はかぶっている場合も多いが)。
細かく分ければいろいろあるが、いちおう代表的なものを三つあげる。
1.歓喜とクリアな意識が生じ、粗雑な意識は静まっていく。
その状態が強まると完全にこの世の意識は失われていくが、ある段階までは両立が可能である。
2.あれがこれで、これがあれで・・・すなわちわたしは人間でこれはコップだとか、そのような識別作用が失われていく。
とはいえ、別に意識作用がないわけではない。はっきりとした純粋な意識がある。
3.ただそこにはカルマの因果関係から生じている縁起の現象があるだけであって、この世には、実体のある、縁起を離れて独立自存するものは何一つないということが、理論ではなく実感としてわかる。独立自存するものがないのだから、それらへの分別もない。
上記1~3はあるときは瞑想で、ある時は普通に活動しているときにも生じる。
しかし、特に1と2は、ある程度以上その状態を深めたままでは、普通の活動は(普通は)できない。
4.これらを超越した、四つ目の境地の瞑想がある。
いや、それは超越しているわけではなく、境地でも瞑想でもないというか、あるともないともいえないというか・・・
それは表現不可能だが、そういう問題でもない。
一つ言えることは、書けないということである。
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