yoga school kailas

「恐れずに進め」

【本文】

 無限の喜びを生じ続ける最上の法の喜びを見捨てて、なぜ汝は苦しみの因であるざわつきや笑いこけることなどを喜ぶか。

【解説】 

 私のヨーガ教室では--ヨーガのみならず仏教の教えも展開されているわけですが--よく、「法の歓喜の笑い」が起きます(笑)。法について話していると、とても歓喜になって、みんなで大笑いしてしまうんですね(笑)。それは外の道路まで聞こえるほどの笑い声のときもあります(笑)。
 まあ、そういう笑いだったらいいんですが(笑)、そうではなくてただの冗談とか、軽薄な笑いとか、人をバカにする笑いとか、あるいは意味のない噂話やその他の無意味な話でざわつくこと、これらは意味がないし、歓喜でもない。
 「法の歓喜の笑い」のみならず、個人的な意味でも、修行によって心身に強烈なエクスタシーが生じます。これらの喜び、歓喜には、限りがありません。よってこれらを求めるべきであるのに、より低レベルのざわつきや笑いを求めてどうするんだ、ということですね。それは我々の心を汚し、苦しみの因となるだけですよ、と。

【本文】

 不撓不屈、軍隊、専心、自己支配、自他の平等視、および自他転換(--これらは怠惰を除く)。

【解説】

①不撓不屈--どんな困難にあってもひるまずくじけないこと。
②軍隊--この意味については後で出てくるので省略します。
③専心--自己の今やるべきことに全力で集中すること。
④自己支配--自己の感情や煩悩に振り回されず、真理の意識によって自己の心や行動を支配すること(これを「ヨーガ」といいます)。
⑤自他の平等視--自分と他人を平等に見ること。
⑥自他転換--他者を自分のように愛し、自分を他者のようにみなすこと(これについては第8章で詳しく説かれます)。

 これらの実践によって、怠惰が取り除かれるということですね。頑張りましょう。

【本文】

 「どうやったら覚醒が得られるというのだろうか」と考えて、懈怠に堕してはならない。なぜならば、真実を説く如来は、真実に次のごとく説きたもうたから。
 すなわち、彼らは以前に虻、蚊、はえ、虫けらでありながら、努力によって、得がたい最上の覚醒を得た、と。

 まして、私は生まれながら人として、徳と不徳とを知ることができる。全智者の規則を遵守すれば、どうして覚醒が得られないか。

【解説】

 覚醒、悟り、解脱--これらは計り知れず、その境地は想像できず、自分がそれにいたることなど考えられず、意気消沈してしまうかもしれません。特に、自己の汚れにうんざりしたときなどは、そうかもしれませんね。
 しかし、仏典その他を見るならば、お釈迦様も、他の仏陀や聖者方も、かつては虫けらだったり、あるいは地獄に落ちていたことすらあるのです。あるいはどうしようもない駄目な修行者だったこともあるのです。しかし努力によって、彼らは最上の覚醒に到達したのです。
 まして我々は今、前生からの徳と縁によって、知性を持った人間とて生まれ、仏陀の教えと出会い、何が善であり何が悪であるかを知ることができました。仏陀が残してくれた教えにしたがって修行するなら、覚醒、悟り、解脱にいたらないはずがありません。そのような確信を持って、意気消沈することなく、努力し続けなければなりません。

【本文】

 「それには、自己の手足等を犠牲にしなければならない」と考え、私におそれが生ずるとすれば、それは反省の欠如から、軽重混同のおろかさに落ちることとなろう。

 無数なる数千カルパの間、私はたびたび身体を断たれ、破られ、焼かれ、裂かれなければならない。しかも覚醒は達成されないであろう。

 然るに、今この正覚の手段としての私の苦しみは限定せられている。あたかも体内に射込まれた矢の苦難を除くために、それを抜き取る苦しみにたとえられる。

【解説】

 仏陀や菩薩方の過去世の物語には、衆生のために自分の体さえも布施したり犠牲にしたりする話が多くでてきます。
 もちろん、我々が修行を進める上で、今生においてそういう場面が生じるかどうかはわかりません。しかし、それくらいの覚悟、つまり悟りを得るためには腕や足や肉体くらい犠牲にしてやる、くらいの覚悟は必要ですね。
 
 逆にそれに恐れが生じるとしたら、それはおろかである、といっています。それはどういうことでしょうか?

 我々は過去世において、何度も地獄に落ち、体を裂かれ、焼かれ、つぶされてきました。
 動物に生まれ変わったときも、天敵に食い殺されたり、あるいは人間に捕まって切られたり焼かれたりしたかもしれません。
 あるいは人間に生まれ変わったときも、カルマが悪く、体を切られたり焼かれたりしたことがあったかもしれません。
 そして、修行をしなかった場合、この輪廻にいる限り、未来においてもものすごく長い間、同様に地獄や動物や人間の世界で、体を切られたり焼かれたりすることが多くあることは推測できます。
 しかしそれらの苦しみは、全く役に立たない、意味のない苦しみなのです。さらにそこで苦しむことで、より心の憎しみや誤った見解は強まり、より多くの悪業をなすので、雪だるま式に悪業と苦しみの蓄積は増え、止まることはないでしょう。
 
 つまり、過去においても我々は多くの苦しみを受けてきたし、今のままなら未来においても多くの苦しみを受けるでしょう。それは終わりなき苦しみです。しかもそれらは悟りには結びつかず、ただ苦しみの要素を増やすだけの苦しみなのです。

 しかし、正しく悟りを求める修行において味わわなければならない苦しみは、限定的なものです。つまりその悟りから自己を遠ざけている汚れの部分を浄化するときの苦しみなので、汚れがある分は苦しまなければなりませんが、汚れが除かれれば苦しむことはなく、そして悟りという大きな果報が得られるのです。
 それはよく、本文にもあるように、身体に刺さった矢を抜くときの苦しみにたとえられます。矢を抜くときに痛みが生じますが、それは本質的に矢の苦しみを取り除くために必要な苦しみなのです。だからそれを恐れてはいけないのです。矢を抜く苦しみを恐れ、矢をそのままにほうっておいたなら、矢を抜く以上の苦しみが、永遠にその人を襲い続けるでしょう。その人が矢を抜くまでは。
 だからいつかは誰もが矢を抜かなければなりません(=悟らなければならない)。それだったら、多くの苦しみを味わった後にそうするよりも、今、わずかな苦しみだけを味わって、早く悟ってしまった方がいいではないですか。その辺のメリット・デメリットを正確に分析し、修行の苦しみへのおそれを捨て去って、勇猛果敢に精進に励むべきだと思います。

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