サラハの「人々のためのドーハー」(5)
多くの聖典で説かれる唯一者は、
お前の祈りによって、明らかに現われる。
しかし人々は、自分こそが正しく、他者は間違っていると考える。
一つの食べ物(唯一者の概念)を食べながら、
同時に他の食べ物(自分のエゴに基づいた概念)も平らげる。
こうして彼女は外に出て、自分の主を探す。
唯一者は、来ることがない。
また、とどまることがなく、行くこともない、
不動なるものとして知られている。
ならば、おまえ自身が行ったり来たりすることを捨てないならば、
どうやってこのすばらしい光輝を得ることができようか?
頭頂に集中するとき、思考は純粋となる。
そして、自分の中の差異を考えるな。
体と言葉と心に区別がないとき、
生来の輝きである真の本質に近づくだろう。
そこでどのような、別のことが起こるというのだろうか?
戸惑いのない妻は、どこで主人を破壊しつくすだろうか?
このヨーギニーの行為は、比類なきものである。
彼女は主人を破壊し、生来の輝きへと近づく。
そこには愛著も非愛著もない。
自分自身のそばに腰を下ろし、彼女の心は破壊される。
私はこのようなヨーギニーを見た。
彼女は、思考が起きるや否や、食べ、飲み、思索する。
それは心を超えた、想像を超えた、ヨーギニーの驚異である。
ここにおいては、太陽と月さえもがその優位性を失い、
彼女の中で三界は創造される。
おお、このヨーギニーを知れ。
思考の完成者、生来なるものの統一者である彼女を。
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