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サラハの「人々のためのドーハー」(4)

 見、聞け。触れ、食べよ。
 嗅げ。さまよえ。座り、立て。
 議論のうぬぼれを捨てて、
 思考を捨て、単一さの中にとどまれ。

 グルの指示というアンブローシアを、今すぐに飲まない者は、
 あまたの理論という砂漠の中で、渇きによって死ぬだろう。

 思考や思惑を捨て去り、子供のようであれ。
 お前のグルの教えに献身せよ。
 そのようにして、生来なるものは明らかになる。

 それは、名前や他の特性がないので、
 私はそれは、議論によって理解されることはないと言ったのだ。
 それではどのようにして、至高者を言葉で記述することができようか?
 それは少女が、言葉にできない喜びを味わうようなものだ。

 完全に存在と非存在の概念を欠いた、
 全世界が吸収されるのは、そこである。
 人が、存在の罠から解放されたとき、
 心は不動となる。

 お前がお前自身で、至高なるものを見ることなく、
 そんなにも比較の対象ばかり増やして、どうするのだ?
 誤りが終わりを告げるとき、私はそれを教える。
 お前は、おまえ自身を知っている。

 人は、分子や原子について考えてはいけない。
 それは狂気なる誤りであると、サラハは言う。
 存在として絶え間なく流れ出るのは、この至高なる至福である。
 純粋にして完全なる境地を知れ!

 夫は家の中にいるのに、妻は外に出て彼を探す。  
 彼女は夫を見ているのに、いまだに隣人に夫の居場所を尋ねる。
 サラハは言う、おお、馬鹿者よ、お前自身を知れ。
 瞑想やマントラは、必ずしも重要ではない。

 「師が話したことを、すべて理解していますか?
 そしてすべてを理解することなく、解脱することができるのですか?」
 このように考え、人はさまざまな経験を求めてさまようが、
 彼らは生来なるものを知らないため、悪を積み上げる。

 感覚の世界を楽しめ。人は感覚の世界によってけがされることはない。
 人は水に触れることなく、蓮華を引き抜く。
 このようにして、ものの本質に迫ったヨーギン、
 彼らはこの世を楽しむが、感覚の奴隷になることはない。

 ある者は神に礼拝し、そして催眠状態になって、神の姿を見るかもしれない。
 しかし彼がまだ死に従属しているならば、神を見ることが何の役に立つのか?
 こういったすべてのことでは、輪廻を破壊することはできない。
  
 ある者は言う、
 「眼の位置を固定し、思考を止め、呼吸を抑制しなさい。
 これがわれわれの主と師の教えです。」
 しかし、彼の呼吸が不動になったとき、
 そのヨーギンは仮死状態になるが
 それが何だというのか?

 人が感覚の範囲にいる間、
 欲望は、それ自体で流れ出る。
 誰が、この厄介な問題に対処できようか?
 人が何かの範囲の中にいるとき、人は自分でそれを見ることはできない。

 すべての学者たちは、自分たちの論を説明する。
 しかし彼らは、自らの中に住む仏陀のことを知らない。
 よって、行くことと来ることは破壊されない。
 しかし恥知らずにも彼らは言う。「私は賢者である」と。

 決して歳をとらない人がいるとしたら、
 彼は老いと死から自由であるといえるだろう。
 しかしそれは不可能なことである。
 彼のグルの言葉によって、心は明らかとなる。
 これ以外に、どんな宝があるというのだろうか。
 
 感覚の対象を楽しむことなく、ただ空の教えだけを修行する者は、
 海の上の船から飛び立った鳥のようである。
 鳥はその辺を一周した後、また船に戻ってくる。

 とはいえ、感覚の奴隷にはなるな、とサラハは言う。 
 魚、蝶、象、ミツバチ、鹿のたとえについて考えなさい。

 心に生じるものは何でも、
 彼自身の本性である。
 波は水と異なるものだろうか?
 空間のような心の本性は、一つであり、すべてと同一である。 

 誰が話し、誰が聞き、何を信じるというのか?
 ほこりっぽい洞穴の中のチリのように、
 心に生じたものは、心において休息する。

 水に注がれた水のように
 すべては一つの味を持つ。
 長所と欠点は同じであると言われるように、
 対立する二つの概念は、どこにもない。

 空の概念に執着せず
 すべては平等であると見よ。
 ゴマの種の殻でさえ、矢で射られたときのような痛みを引き起こすのだ。

 行為は、すべてを成就させる如意宝珠のようである。
 学者たちが、自己の過ちによって悲しみに向かうのは、奇妙なことだ。
 真の自己の経験によって、偉大なる至福は現われる。

 その中で、すべての形あるものは、空間における同一性を与えられ、
 そして心は、この同じ同一性の本性の中で安住する。
 このようにして、心が心であることをやめるとき、
 生来的な輝く真の本性に近づいていく。

 机の上で、この世の現象が議論されるが、
 偉大なる至福の根源は、知られていない。
 世界は思考の奴隷になっていると、サラハは言う。
 そして人は、思考を超えることを知らない。

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