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クンサン・ラマの教え 第一部 第三章「輪廻の苦しみ」(8)

5.阿修羅

 阿修羅は半神であり、神々の対抗者である。喜びと豊かさを享受しているが、過去世において嫉妬や争い、戦いを好む悪い習性があった。その果報によって、阿修羅に生まれた者は強い嫉妬心を持っている。
 彼らは縄張りなどについて論争し、常に戦いと口論に明け暮れている。
 阿修羅の世界から神々の世界を見上げると、神々が自分たち以上の喜びと豊かさを享受している様子が見える。神々の世界には、どんなものでも与えられる如意宝珠が生えているが、阿修羅の世界にはその根っこしかない。阿修羅は耐え難い憤りにとらえられて、鎧をつけて武器をとり、神々に対して戦いを挑む。
 神々はそれを知ると、「武力の森」に行って鎧をつけ武装する。無数の神々の軍隊が、圧倒的な輝きを放ち、強力な雄たけびをあげる。戦いが始まると、神々は、ヴァジュラ、車輪、槍、巨大な矢などの武器を雨のように降らせる。また、大きな山を折りたたんでミサイルのように投げつける力も持っている。神々は人間の七倍背が高いが、阿修羅は神々よりはるかに背が低い。神々を殺すには頭を切るしかなく、それ以外のどんな傷でも、聖なる神の食事によってすぐに治ってしまう。一方の阿修羅は人間のように、重要な臓器を攻撃されると死んでしまう。そのため、戦いが起きても、多くの場合、阿修羅が負けてしまう。
 阿修羅の世界では、常に戦いと争いが起きており、苦しみから自由になることはない。そのような阿修羅の運命を瞑想しなさい。

6.天界

 天界の神々は、完璧な健康と快適さ、富と幸せを、その生涯にわたって享受する。しかし、常に心地よい思いをしているために、長い寿命にも関わらず、ダルマを修行しようという思いは起こらない。生涯を楽しみに費やし、あるとき突然、死に直面する。
 神々が死ぬときには、五つの前兆が生じる。
1.神々の体はいつも光り輝き、数キロ離れていても見えるほどであるが、その光が弱まり、ぼんやりしてくる。
2.玉座に座っていても心地よくなくなり、不快感や病が生じる。
3.どれほど時が経っても枯れなかった花の冠が枯れてしまう。
4.どれほど長く着てもいつも新鮮で清潔であった衣服が、古ぼけて不潔になり、臭い始める。
5.汗を全くかかなかった身体が、汗をかき始める。
 このような五つの死の前兆があらわれると、まもなく自分は死ぬということを知り、神々は苦しむことになる。それを知った仲間や恋人たちは、もはや彼に近づくことはなく、遠くから花を投げて、「死んだら人間に生まれ変わり、善い行ないをして、また天界に生まれ変わりますように」と幸運を祈るだけで見捨ててしまう。死につつある神々は、孤独になって悲しみに飲み込まれる。
 そして彼は、神の目によって、次にどこに生まれ変わるのかを見ることができる。それが苦界であれば、その恐怖に打ち負かされる。その苦痛は日に日に強くなっていき、絶望し、天界の時間で七日間にわたって悲しみ嘆き続ける。
 例えば三十三天の七日間は、人間の七百年である。その間、彼は苦しみ続ける。その精神的な苦痛は、地獄の苦しみの二倍も悲惨である。
 
 
 どこに生まれ変わっても、六道輪廻はすべて苦しみであり、苦しみのもとであり、苦しみを増大させるものであり、苦しみ以外の何もない。それは、火の穴、人食い鬼の島、深い海底、ナイフの先端、墓場のようなものであり、ほんの一時も安らぐことはできない。

 勝者マイトレーヤは、次にように説いている。

 肥溜めに良い香りがしないのと同様に、
 輪廻の生命体に幸福はない。

 
 このような教えを見るならば、どこに生まれ変わっても、最も高い天界から地獄の底に至るまで、ほんの少しも本当の安らぎや幸福を得ることはできないと理解できるようになる。輪廻には何の意味もない。輪廻とその苦しみを考え、肝臓の悪い人が脂っこい食べ物を見るときのように、輪廻に対して欲望を抱かなくなるようになりなさい。
 これらの苦しみについて、表面的な知識として理解するだけで満足してはいけない。深く理解するまで、心の中でその苦しみを自分の苦しみとして、あらゆる想像力をもって体験しなさい。深く納得することができれば、悪しきを行ないを避けて善き行ないを喜ぶことが、自然にできるようになる。

 ナンダはお釈迦様の異母弟であるが、妻に非常に執着していた。お釈迦様は奇跡的な力で彼を雪山の頂上に連れて行き、片目の雌猿を見せると、
 「この猿と、お前の妻のプンダリーカーと、どちらが美しいか?」
と問うた。
 「わたしの妻の方が、百倍も千倍も美しいです!」
とナンダは答えた。
 次にお釈迦様はナンダを天界へと連れて行った。そこでは神々が、多くの若い女神に囲まれてそれぞれの宮殿に住んでおり、信じられないほどの喜びと幸福と豊かさを享受していた。しかし一つだけ、多くの女神がいるのに主人の神がいない宮殿があった。ナンダが理由を尋ねると、女神は答えた。
 「人間界にナンダという名の仏陀の異母弟がいて、出家の戒と修行に励んでいます。この行ないによりナンダは天界に生まれ変わり、この宮殿に住むことになっているのです。」
 ナンダはとても喜んでお釈迦様の元に戻った。お釈迦様は問うた。
 「神々の世界を見ましたか?」
 「しっかり見ました!」
 「では、お前の妻と、天界の女神と、どちらが美しいか?」
 「天界の女神の方が、百倍も千倍も美しいです!」
 地上に戻るとナンダは、天に生まれることを夢見て、戒と修行に励んだ。
 するとお釈迦様は修行者たちに、
 「ナンダは世俗の生活を捨てて修行に励んでいるが、それは天界に生まれ変わるためである。しかしあなた方はみな、解脱するために出家修行者になったのだから、あなた方とナンダの道は同じではない。これからは、彼に話しかけてはいけないし、親しくしてもいけない。一緒に座ってもいけない」
と言った。
 すべての出家修行者がその言葉通りにしたため、ナンダはとても困惑した。いとこであるアーナンダでさえ、ナンダが近づくと、立ち上がって去っていった。ナンダが理由を問うと、アーナンダはお釈迦様が言ったことを伝えたため、ナンダは傷ついた。
 そしてお釈迦様は今度はナンダを地獄へと連れて行った。ナンダは地獄の様々な場所を見たが、ある場所に、炎がその中で轟音を立てている空っぽの巨大な瓶があった。その周囲には多くの獄卒たちがいた。ナンダが彼らに、なぜこの瓶の中は誰もいないのかと尋ねると、獄卒は答えた。
 「ブッダの若い異母弟がいる。彼は出家して修行に励みながら、天界に生まれ変わろうとしている。天界の幸福を楽しんだ後、功徳が尽きて、彼は地獄に落ち、この瓶の中に入れられることになっているのだ。」
 ナンダは恐ろしくなり、やっと考えを改めた。たとえ天界に生まれても、また地獄に落ちるのでは意味がない。彼は輪廻から解脱することを真剣に決意した。
 かつてナンダは非常に煩悩に弱かったが、真剣な修行の結果、彼は自分の感覚を楽しませるようなことをほんの少しもすることがなくなり、お釈迦様は、「ナンダは感覚を最もよく制御できる弟子(調伏根第一)である」と言って彼を褒めた。

 輪廻の様々な苦しみをよく考えなさい。心の底から、今生の世俗的な望みから離れなさい。世俗的な行ないを捨てない限り、どのようなダルマを修行しているといっても、それは本物ではない。

 アティーシャがこの世を離れようとするとき、ある修行者がアティーシャに質問した。
 「あなたがお亡くなりになった後、わたしは瞑想に専念するべきでしょうか?」
 「もうしそうしたとすれば、それは本当のダルマでしょうか?」
とアティーシャは答えた。
 「それならば、教えを説くべきでしょうか?」
 アティーシャはまた言った。
 「もうしそうしたとすれば、それは本当のダルマでしょうか?」
 「それならば、どうしたらよろしいでしょうか?」
と修行者が聞くと、アティーシャは答えた。
 「師トンパを完全に信頼し、今生を捨てることです。」

 別の話もある。ある僧がラデン寺を巡礼していると、ゲシェー・トンパに出会った。トンパは、
 「貴い僧よ、巡礼も良いことですが、本当のダルマを修行した方がよいのではないでしょうか?」
と言った。
 その僧は、「大乗の経典を読むほうが、巡礼よりももっと重要かもしれない」と考えて、経典を読み始めた。
 しばらくするとトンパは僧に、
 「経典を読むことも良いですが、本当のダルマを修行した方がよいのではないでしょうか?」
と言った。
 その僧はもう一度考えて、「経典を読むより、瞑想修行をした方がよいに違いない」と思い、目を半開きにして瞑想し始めた。
 するとトンパは僧に、
 「瞑想も良いですが、本当のダルマを修行した方がよいのではないでしょうか?」
と言った。
 その僧はわけが分からなくなってしまい、
 「貴いゲシェーよ、わたしはどうすればよいのでしょうか!?」
と叫んだ。
 トンパは答えた。
 「貴い僧よ、今生を捨てるのです! 今生を捨てるのです!」
 
 苦しみの世界である輪廻からの解脱を永遠に妨げ続けるのは、世俗のあらゆる行ないや執着である。真の師を別にすれば、この世俗の人生に自分をつなぎとめる碇を切断し、悟りを得るために何をなすべきかを示してくれる者は誰もいない。この世俗の人生においてあなたが気にかけていることはすべて、塵の中に吐いた唾にすぎない。今ある食べ物や服に満足して、ダルマの修行に打ち込みなさい。

 真にダルマを修行し、経験を得るためには、輪廻のすべてがいかに無意味であるかを理解することが重要である。そのための方法は、輪廻の悪について瞑想することである。輪廻が苦しみに満ちたものであることを深く確信するまで、よく考えなさい。
 そのような瞑想が自分の中に根を下ろしたら、ゲシェー・ランリ・タンパのように感じるであろう。
 ある日、彼のお付きの一人が言った。
 「他の人は、あなたのことをランリ・タンパ(憂鬱な顔)と呼んでいますよ。」
 するとゲシェーは答えた。
 「輪廻の三界のあらゆる苦しみを考えれば、どうして明るく晴れやかな顔ができるだろうか?」
 ランリ・タンパはたった一度だけ笑ったことがあるといわれている。マンダラの上にあったトルコ石をネズミが動かそうとしていたが、石を持ち上げることができなかった。ネズミがチューチュー鳴くと、もう一匹のネズミが出てきた。一匹のネズミはトルコ石を押し、もう一匹は引っ張った。それを見て、ランリ・タンパは笑った。

 ここで述べてきたような輪廻の苦しみに関する瞑想は、道におけるすべての善き特性をはぐくむための基礎であり助けとなる。この瞑想によって、心はダルマの方を向き、カルマの法則を確信し、世俗の人生への執着を捨てることができる。そして、すべての衆生への慈愛と慈悲を培うことができる。
 お釈迦様自身、苦しみを理解することがいかに重要かを指摘しており、初転法輪において、「この世は苦しみである」という真理からダルマを説き始めた。この真理を完全に納得し確信するまで、修行を続けなさい。

 輪廻が苦しみであることを理解しているのに、いまだ輪廻を欲している。
 三悪趣を恐れているのに、いまだ過ちを続けている。
 わたしとわたしのような彷徨える者たちに、恩寵をお与えください。
 今生を真に捨てることができますように。

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